。踊りはますます活気だってきた。ロールヘンはもはやクリストフに注意を向けていなかった。村のある馬鹿な若者の方へ、頻繁《ひんぱん》に振り向かなければならなかった。それは豪農の息子で、すべての娘たちの争いの的となっていた。クリストフはその競争を面白がった。娘たちはたがいに微笑み合い、また喜んで引っかき合っていた。お坊ちゃんのクリストフは夢中になって見ていた。そしてロールヘンの勝利を願っていた。しかしその勝利が得られると、少し悲しい気がした。それをみずからとがめた。彼はロールヘンを愛していなかったし、彼女が自分の好きな者を愛するのは当然だった。――もちろんそうである。しかしながら、一人ぽっちだという気持は愉快なものではなかった。ここにいるすべての人々は、彼を利用して次に彼を嘲笑《あざわら》うためにしか、彼に興味をつないではしなかったのである。彼は溜息《ためいき》をついた。ロールヘンをながめながら微笑んだ。ロールヘンは、競争者たる他の娘どもを憤らせる喜びで、平素よりはるかに美しくなっていた。彼は帰ろうと思った。もう九時近くだった。町へ帰るには、たっぷり二里ほどは歩かなければならなかった。
 彼がテーブルから立ち上がりかけると、扉《とびら》が開いた。十人ばかりの兵士が、どやどやはいり込んできた。そのために室の中が白《しら》けわたった。人々はささやきだした。踊っていた男女の幾組かは、その踊りをやめて、新来者に不安な眼を注いだ。扉の近くに立っていた百姓は、わざと兵士らへ背中を向けて、自分たちだけで話をしだした。しかし様子にはそれと見せないで、用心深く身をよけて、兵士らを通らした。――先ごろから、町の周囲にある要塞《ようさい》の守備兵らと、土地の者らは暗闘を結んでいたのである。兵士らは退屈でたまらないので、百姓らに向かってその鬱憤《うっぷん》を晴らしていた。百姓らを無遠慮に嘲笑し、ひどくいじめつけ、その娘らにたいしては、征服地におけると同様の振舞いをしていた。前週なんかは、酒に酔った兵士らが、隣村の祭礼を騒がして、一人の小作人を半殺しにした。クリストフはそれらのことを知っていたので、百姓らと同じ心持になっていた。そしてふたたび席につきながら、どういうことが起こるかを待った。
 兵士らは厭《いや》な様子で迎えられたのを気にもかけずに、ふさがってるテーブルへ騒々しくやって行き、人々を押しのけて席を取った。それはちょっとの間のことだった。多くの人々はぶつぶつ言いながら身を避けた。腰掛の端にすわっていた一人の老人は、そう早く退《ど》くことができなかった。彼は兵士らから腰掛をもち上げられて、哄笑《こうしょう》のうちに引っくり返った。クリストフは憤然と立ち上がった。しかし将《まさ》に口を出そうとすると、老人はようよう起き上がって、不平を言うどころか、やたらに謝《あやま》ってばかりいた。二人の兵士がクリストフのテーブルへやって来た。彼は拳《こぶし》を握りしめて彼らが近づくのをながめた。しかし防御の要はなかった。二人の兵士は、格闘者のように大きな人のいい奴らで、一、二の無鉄砲者のあとから従頓についてきて、その真似《まね》をしようとしてるのだった。彼らはクリストアの昂然《こうぜん》たる様子に気おくれがした。クリストフは冷やかな調子で言ってやった。
「僕の席です。」
 すると彼らは急いで詫《わ》びて、邪魔にならないように腰掛の端へ退いた。クリストフの声に首長らしい抑揚があったので、本来の服従心が強く働いたのだった。クリストフが百姓でないことを彼らはよく見て取っていた。
 クリストフはその従順な態度に多少心が静まって、いっそうの冷静さで観察することができた。兵士らは一人の下士に率いられてることが、容易に見て取られた。きびしい眼をした小さなブルドッグみたいな男で、偽善的な意地悪な奴僕的な顔をしていた。先の日曜日に大|喧嘩《げんか》をした豪傑連の一人だった。彼はクリストフの隣りのテーブルにすわり、もう酔っ払いながら、人々の顔をじろじろながめては、ひどい毒舌を投げつけていた。人々は聞こえないふうをしていた。彼はことに、踊ってる男女に鉾先《ほこさき》を向けて、その身体の美点や欠点を、破廉恥な言葉で述べたてた。連中はそれでどっと笑った。娘らは真赤《まっか》になって、眼に涙を浮かべていた。青年らは歯をくいしばって、無言のうちに憤っていた。攻撃者の眼は徐々に室内を一巡して、一人をも見のがさなかった。クリストフは自分の番になってくるのを見て取った。彼はコップをつかんだ。ちょっとでも侮辱の言を発したらその頭にコップを投げつけてやるつもりで、テーブルの上に拳をすえて待ち受けた。彼はみずから言っていた。
「俺《おれ》は狂人だ。出かけた方がましだ。腹をえぐられるようなことになるだろう。そしてもしのがれても、牢屋《ろうや》にぶちこまれるかもしれない。わりに合わない話だ。喧嘩をしかけられないうちに出かけよう。」
 しかし彼の傲慢《ごうまん》心はそれを拒んだ。こういう奴どもから逃げ出すふりをしたくなかった。――陰険|暴戻《ぼうれい》な眼つきは彼にすえられた。彼は堅くなって、憤然とにらみ返した。下士はちょっと彼を見調べた。クリストフの顔つきにおかしくなった。隣りの兵士を肱《ひじ》でつっついて、冷笑しながら青年を指《さ》し示した。そして早くも、口を開いて毒づこうとしかけた。クリストフは腹をすえて、コップを発止と投げつけようとした。――がこんども、偶然に助けられた。酔漢が口をきこうとしたとたんに、一組のへまな踊り手が彼に突き当たって、そのコップを下に落とさした。彼は猛然と振り向いて、盛んにののしり散らした。彼の注意はそちらにそらされてしまった。彼はもうクリストフのことを考えていなかった。クリストフはなお数分間待った。それから、相手がもう悪口を言い出そうとしないのを見て取ると、立ち上がって、静かに帽子を取り、扉《とびら》の方へゆっくり歩いていった。彼は相手がすわってる腰掛から眼を離さないで、逃げ出すのではないことを感じさせようとした。しかし下士はすっかりクリストフのことを忘れていた。だれもクリストフに気を配ってる者はなかった。
 彼は扉のハンドルを回した。も少しで外に出るところだった。しかし無難では出られない運命にあった。室の奥に騒ぎがもち上がっていた。兵士らは酒を飲んだあとに、こんどは踊ろうとしていた。娘たちにはそれぞれ相手の男があったので、兵士らはその男どもを追い払った。男どもはなされるままになった。しかしロールヘンは言うことをきかなかった。クリストフの気に入った勇ましい眼つきと意志の強そうな頤《あご》とを、彼女は無駄《むだ》にもってるのではなかった。彼女が狂気のように踊ってる時、彼女を選んだ下士は、彼女からその相手の男を奪いに来た。彼女は足を踏み鳴らし、叫びたて、下士を押しのけながら、こんな無骨者と踊るものかと言いたてた。下士は追っかけてきた。彼女が人々の後ろに隠れると、彼はその人々をなぐりつけた。ついに彼女はテーブルの後ろに逃げ込んだ。そこでちょっと彼の手からのがれると、息をついてののしりだした。彼女は抵抗してもなんの役にもたたないことを知っていた。癇癪《かんしゃく》まぎれに地だんだふんで、最もひどい言葉を見つけては浴びせかけ、彼の顔を家畜場の種々な動物の顔にたとえた。彼はテーブルの向こう側から彼女の方へ乗り出し、薄気味悪い微笑を浮かべ、怒りに眼を輝かしていた。にわかに彼は勢いをこめて、テーブルを飛び越し、彼女をとらえた。彼女はたくましい女としての本性どおりに、なぐりつけ蹴《け》りつけた。彼はしっかり直立していなかったので、身体の平均を失いかけた。そして憤然として彼女を壁に押しつけ、頬《ほお》に平手の一撃を食《くら》わした。さらにも一度打とうとした。その時、だれかが彼の背に飛びかかり、力任せになぐりつけ、一蹴りで酔漢らのまん中に蹴飛ばした。テーブルや人々を押しのけて彼に飛びかかったその男は、クリストフだった。下士は狂気のように怒りたって、剣を抜きながら向き直った。その剣を使う間も与えずにクリストフは、床几《しょうぎ》で彼をなぐり倒した。見物人のうちで仲裁しようと思いつく者もなかったほど、万事が素早く行なわれてしまった。しかし、下士が床の上に牛のように倒れるのが見えると、恐ろしい騒動がもち上がった。他の兵士らは剣を抜いて、クリストフに駆け寄った。百姓らは兵士らに飛びかかった。全般の争闘となった。コップは方々へ飛び、テーブルはひっくり返った。百姓らは本気になっていった。宿怨《しゅくえん》を晴らそうとしていた。人々は床にころがって、猛然とつかみ合った。ロールヘンを横取られた踊りの相手は、強壮な農家の下男だったが、先刻侮辱を加えた一人の兵士の頭をつかんで、壁に激しくぶっつけていた。ロールヘンは棒を取って、容赦もなく引っぱたいていた。他の娘らは喚《わめ》きながら逃げ出していた。ただ二、三の元気な者たちが、面白がって争闘に加わっていた。その一人の、太った金髪の小娘は、一人の大きな兵士――先刻クリストフのテーブルにすわっていた兵士――が相手を引っくり返して胸を膝《ひざ》でこづいてるのを見て、炉のところへ走って行き、またもどって来て、その暴漢の頭を後ろに引き向け、一つかみの焼き灰を眼に振りかけた。兵士は唸《うな》り声をたてた。娘はその抵抗を失った敵をののしって歓《よろこ》んでいた。彼は今や百姓らから思うままなぐりつけられていた。ついに兵士らは敵しかねて、床の上に三人の仲間を残したまま、戸外へ退却した。争闘は村の往来でつづけられた。兵士らは殺戮《さつりく》の叫びを発しながら、あらゆる人家に闖入《ちんにゅう》して、あらゆる狼藉《ろうぜき》を働こうとした。百姓らは棒を持って追っかけ、荒れ犬をけしかけていた。第三の兵士が、三叉《みつまた》に腹を刺されて倒れた。他の兵士らは村から追い出されて、逃げ出すよりほかに仕方がなかった。畑を横ぎって逃げながら、仲間を集めてじきにもどってくるぞと、遠くから叫んでいた。
 百姓らは陣地を手中に収めて、飲食店へ帰ってきた。彼らは雀躍《こおどり》して喜んでいた。被《こうむ》っていた迫害の意趣晴らしを、久しく期待していたのが今得られたのであった。争闘の結果にはまだ思い及ぼしていなかった。皆一度に口をきいて、各自に勇気を誇っていた。彼らはクリストフに親密な様子を見せた。クリストフは彼らに近づいた心地がしてうれしかった。ロールヘンは彼のところへ行って手を取り、その鼻先で笑いながら、自分の硬《かた》い手の中に彼の手をしばらく握っていた。彼女はもう彼を滑稽《こっけい》だと思っていなかった。
 人々は怪我《けが》人の世話にかかった。村人のうちには、歯のかけた者、肋骨《ろっこつ》の折れた者、瘤《こぶ》や青痣《あおあざ》ができた者があるばかりで、大した害も被っていなかった。しかし兵士らの方はそうでなかった。三人の者は重傷を受けていた。眼を焼かれ肩を半ば斧《おの》で切り取られてる大男、腹をえぐられてあえいでる男、クリストフからなぐり倒された下士。人々はその三人を、炉のそばに横たえておいた。最も軽傷な下士が眼を見開いた。取り巻いてのぞき込んでる百姓らを、憎悪《ぞうお》のこもった眼つきでじっとながめ回した。そして出来事を思い出すや否や、彼らをののしり始めた。復讐《ふくしゅう》をし思い知らしてやるぞと断言し、怒りに喉《のど》をつまらしていた。できるならみなごろしにしてやるつもりでいることが、それと感ぜられた。人々はつとめて笑った。しかしそれは強《し》いて装《よそお》った笑いだった。一人の若い百姓は、負傷者に叫びつけた。
「黙れ、黙らなきゃぶち殺すぞ!」
 下士は起き上がろうとした。口をきいた男を、血走った眼で見すえながら言った。
「野郎め、殺してみろ! 貴様らの首も取ってやる。」
 彼は怒鳴りつづけた。腹をえぐられた男は、血をしぼられる豚のように鋭い叫びを挙げていた。三番目の男は身動きもしない
前へ 次へ
全53ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング