やり夢想にふけっていた。――娘たちはやがて、彼の注意の対象を見分けた。意地悪いあてつけの言葉をたがいに言い出した。彼の好きな娘は、ごく鋭い悪口を彼に投げかけた。それでも彼が動かなかったので、彼女は立ち上がって、しぼったせんたく物をひとかかえ取り上げ、それを叢《くさむら》の上に広げ始めながら、彼の顔をうかがう口実を得るために近寄っていった。近くを通る時に、ぬれた布で彼に水をはねかけるように振舞って、そして笑いながら厚かましく彼をながめた。彼女は痩《や》せていたが頑丈《がんじょう》で、多少しゃくれたきつい頤《あご》、短い鼻、丸みを帯びた眉《まゆ》、輝いた厳《きび》しい大胆なごく青い眼、ギリシャ式の多少つき出た太い唇《くちびる》のある美しい口、頸筋《くびすじ》の上に束《つか》ねてる房々《ふさふさ》とした金髪、日焼けのした顔色をもっていた。頭をまっすぐにして、一語一語に冷笑を浮かべ、日にさらした両手を打ち振りながら、男のように歩いていた。挑《いど》むような眼つきでクリストフをながめながら――彼が口をきくのを待ちながら、せんたく物を広げつづけた。クリストフもまた彼女をながめていた。しかし彼は少しも彼女へ口をききたくはなかった。終わりに彼女は、彼の鼻先で笑い出して、仲間の方へ帰っていった。彼はいつまでもそこに横たわっていた。そのうち夕方になると、彼女は背負い籠《かご》を背にし、露《あら》わな両腕を組み、少し前かがみになって、たえず談笑しながら立ち去っていった。
彼は二、三日後、町の市場の、にんじんやトマトやきゅうりやキャベツなどが山のように積まれた中で、また彼女を見かけた。その時彼は、売りに出された奴隷のように、籠の前にずらりと立ち並んでる女商人の群れをながめながら、ぶらぶら歩いていた。金袋と切符束とをもってる警官が、彼女らの前を順次に通っていって、貨幣を受け取り切符を渡していた。コーヒー売りの女が、小さなコーヒー壺《つぼ》がいっぱいはいってる籠《かご》をもって、列から列へと歩き回っていた。快活な太った一人の老尼が、腕に二つの大きな籠をさげて市場を回り、神様のことを語りながら、恥ずかしげもなく野菜の寄進を求めていた。人々は大声に叫んでいた。緑色にぬった皿《さら》をそなえてる古い秤《はかり》が、鎖の音といっしょにきしり鳴っていた。小さな車につけられてる大きな犬どもが、自分の大事な役目を誇りげに愉快に吠《ほ》えていた。そういう喧騒《けんそう》の中に、クリストフはかのレベッカを認めた。――そのほんとうの名はロールヘンというのだった。――彼女は金髪の後部に、白と青とのキャベツの葉を一枚さしていた。それがちょうど歯形に切り刻んだ帽子のようになっていた。彼女は籠の上に腰をかけ、黄色いたまねぎや小さな薄赤い蕪菁《かぶら》や青いいんげん豆や真赤《まっか》な林檎《りんご》などの山を前にし、売ろうともしないで林檎をかじっていた。彼女は食べてやめなかった。時々、前掛で頤《あご》や首をふき、腕で髪の毛をかき上げ、頬《ほお》を肩にこすりつけ、または手の甲で鼻をこすっていた。あるいは両手を膝の上に置いて、一握りのえんどうを際限もなく手から手へ移していた。そして閑散な様子で、左右をながめていた。しかし身のまわりで起こることは少しも見落とさなかった。気がつかないふりをしながらも、自分の方へ向けられてる眼つきを見て取っていた。彼女は完全にクリストフを認めた。買い手たちと話しながら、その頭越しに、眉根《まゆね》をよせて自分の賛美者を観察していた。彼女は法王のように威儀堂々としていた。しかし心のうちではクリストフを嘲《あざけ》っていた。彼は嘲られるに相当していた。数歩向こうにつっ立って、彼女を貪《むさぼ》るように見つめていたのである。それから彼は、言葉をかけずに立ち去った。
その後彼は何度か、彼女の村のまわりをさまよった。彼女はよく農家の中庭を行き来していた。彼は往来に立ち止まって彼女をながめた。彼女のためにやって来たのだとは自認していなかった。そして実際、そんなことはほとんど考えていなかった。彼はある作曲に没頭すると、夢遊病者みたいな状態になるのだった。意識的な魂が音楽的思想を追い求めている一方に、一身の他の部分は無意識的なも一つの魂のものとなり、その魂はわずかな放心の隙《すき》をもうかがって自由の天地にのがれようとしていた。彼はしばしば、彼女の正面にいる時でも、自分の音楽の囁《ささや》きに気を取られていた。そして彼女をながめながら夢想しつづけていた。彼は彼女を愛してるとは言い得なかった。そんなことは考えてもいなかった。彼女を見るのが楽しい、ただそれだけだった。自分を彼女の方へ導いてゆく欲望には、みずから気づいていなかった。
そういう執拗《しつよう》なやり方は、噂《うわさ》の種となった。農家の人々はそれを笑っていた。クリストフが何者であるか知られてしまった。人々は笑いながらも彼を放《ほう》っておいた。なぜなら彼は害を与えはしなかったから。要するに、彼は馬鹿者のような様子をしていた。そして自分でも平気でいた。
村の祭りだった。悪戯《いたずら》っ児《こ》らは小石の間で癇癪《かんしゃく》玉をつぶしながら、「皇帝陛下万歳!」を叫んでいた。小屋に閉じこめられてる牛の鳴き声が聞こえ、居酒屋には酔っ払いの歌が聞こえていた。彗星《すいせい》のような尾をつけた凧《たこ》が、畑の上高く空中に動いていた。鶏が黄色い敷き藁《わら》を狂気のようにかき回していた。風がその羽を、老婦人の裳衣《しょうい》に吹き込むように、吹き広げていた。一匹の薄赤い豚が、日向《ひなた》で快《こころよ》げに横たわって眠っていた。
クリストフは三王星[#「三王星」に傍点]という飲食店の赤い家根の方へ進んでいった。その上には小さな旗が翻っていた。正面にはたまねぎの数珠《じゅず》がかかっていて、窓には赤と黄との金蓮花《きんれんか》が飾ってあった。彼はその広間にはいった。煙草《たばこ》の煙が立ちこめていて、壁には黄ばんだ着色石版画が並び、いちばん誉《ほま》れある場所に、帝王の彩色像が掲げられて、樫《かし》の葉飾りで縁取られていた。人々は踊っていた。クリストフは、あの美しい娘もそこにいるに違いないと思っていた。そして実際彼はその顔をまっ先に認めた。彼は室の隅《すみ》にすわった。そこからゆっくりと踊り手らの動きがながめられた。彼は気づかれないようにごく注意していたが、ロールヘンは向こうから彼を見つけ出した。つきることなきワルツを踊りながら、彼女は相手の男の肩越しに、ちらちらと横目を注いだ。そして彼の心をなお刺激するために、大口を開《あ》いて笑いながら、村の若者らとふざけていた。ひどく饒舌《じょうぜつ》で、つまらないことを言いたてていた。この点では彼女も、社交裏の若い娘らと同じだった。彼女らは人からながめられてると、笑ったり動き回ったりしなければならないと思い、自分だけではなく見物人のために、馬鹿にならなければならないと思うのである。――でもこの点では、彼女らはそれほど馬鹿ではない、なぜなら、見物人は自分をながめてはいるが耳を傾けてはいないということを、知っているからである。――クリストフはテーブルに両|肱《ひじ》をつきその拳《こぶし》に頤《あご》をのせて、娘の素振りを熱烈な眼で見守っていた。彼の精神はあまりとらわれていなかったので、彼女の狡猾《こうかつ》から欺かれはしなかった。しかしそれからひきつけられないほど自由でもなかった。そしてあるいは憤りの声をもらしたり、あるいはひそかに笑ったりしながら、罠《わな》にかかりかけると肩をそびやかしていた。
も一人の者が彼の様子をうかがっていた。それはロールヘンの父だった。背が低くでっぷりして、鼻の短い大きな顔で、禿《は》げてる脳天は日にやけ、まわりに残ってる昔の金髪は、デューラーの聖ヨハネのように、厚く巻き縮れてい、髯《ひげ》はすっかり剃《そ》り、冷静な顔つきをし、口の角《かど》に長いパイプをくわえて、彼は他の百姓らとごくゆっくり話しながら、クリストフの無言の身振りを、流し目にうかがっていた。そしてひそかに笑みをもらしていた。やがてちょっと咳《せき》払いをした。小さな灰色の眼の中に、悪意の光を輝かせながら、クリストフのテーブルの横手に来てすわった。クリストフは不快になって、しかめた顔をふり向けた。するとその老人の狡猾《こうかつ》な眼つきに出会った。老人はパイプをくわえたままで、馴《な》れ馴《な》れしく言葉をかけた。クリストフは彼を見知っていた。性質《たち》の悪い老人だと思っていた。しかし娘にたいする弱みから、その父親にたいして寛大になっていて、いっしょにいると妙な喜びをさえ感じた。こざかしい老人はそれに気づいた。彼は天気の晴雨について話し、向こうの美しい娘たちのことや、クリストフが踊らないことなどを、遠回しにひやかしたあとで、踊る労を取らないのはもっとものことであり、酒杯の前に肱《ひじ》をついて食卓にすわってる方がましだと結論した。そして遠慮なく一杯|御馳走《ごちそう》になった。飲みながらも彼は、やはりゆっくりと話していった。こまごました事柄、生活の困難なこと、天気の悪いこと、諸物価の高いこと、などを言い出した。クリストフは不機嫌《ふきげん》な二、三言を返すばかりだった。そのことに興味はなかった。彼はただロールヘンをながめていた。時々沈黙がおちてきた。百姓は彼の一言を待った。しかしなんら答えもなかった。それでまた静かに話しだした。クリストフは、この老人の相手をしその打ち明け話を聞くの光栄に浴する訳を、みずから怪しんでいた。ところがついに了解した。老人は苦情を述べつくしたあとで、他の問題に移っていった。自分の所でできるもの、野菜や飼い鳥や卵や牛乳などを、上等だと自慢した。そしてだしぬけに、官邸を顧客《とくい》にしてもらえまいかと尋ねた。クリストフははっとした。
――どうして知ってるのかしら?……俺《おれ》のことを知ってるのかな。
――そうだとも、と老人は言っていた、なんでも知れるものさ……。
だが次のことは口にしなかった。
――……自分で骨折って調べる時には。
クリストフは意地悪い喜びを感じながら、「なんでも知れる」にもかかわらず、自分があの小宮廷と仲|違《たが》いをしたこと、昔は官邸の大膳《だいぜん》局や厨房《ちゅうぼう》に信用を得ているとの自惚《うぬぼ》れがあったにしろ――(それをも実は疑っていた)――その信用も今では没落してしまってること、などは知られてやすまいと教えてやった。老人はかすかに口元をしかめた。それでも落胆はしなかった。ちょっと間をおいてから、せめて某々の家庭に紹介してもらえまいかと尋ねた。そしてクリストフが関係のある家庭を皆列挙した。市場で正確に聞きただしておいたのである。クリストフはそういう探索を怒り出すはずだったが、しかしこの老人がいかに狡猾《こうかつ》でも結局は馬鹿をみるにすぎないだろうと考えて、むしろ笑い出したくなった。(老人は自分の求めてる紹介が、新しい顧客を得るよりも在来の顧客を減らすに役だつような紹介であることを、ほとんど気づかないでいた。)それでクリストフは、老人がその粗雑なくだらない奸計《かんけい》を、無駄《むだ》に頭からしぼり出しつくすのを放っておいた。そして否とも応とも答えなかった。しかし百姓はしつこく言いたてた。取って置きのクリストフ自身やルイザの方へ鉾先《ほこさき》を向けて、牛乳やバタやクリームを無理にも押しつけようとした。クリストフは音楽家だから、朝晩に新しい生卵をのむくらい声にきくものはないと、言い添えた。生み立てのぽかぽかした卵を差し上げようと、盛んにすすめた。クリストフは老人から歌手だと思われたことを考えて、放笑《ふきだ》した。百姓はそれにつけ込んで、も一本酒を取り寄せた。それから彼は、クリストフから当座引き出し得るものは皆引き出してしまったので、そのままぶっきら棒に立ち去っていった。
夜になっていた
前へ
次へ
全53ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング