ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第四巻 反抗
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)生涯《しょうがい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|馬鹿《ばか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Seine Majesta:t〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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序
ジャン・クリストフの多少激越なる批評的性格は、相次いで各派の読者に、しばしばその気色を寄せしむるの恐れあることと思うから、予はその物語の新たなる局面に入るに当たって、予が諸友およびジャン・クリストフの諸友に願うが、吾人の批判を決定的のものとみなさないでいただきたい。吾人の思想のおのおのは、吾人の生涯《しょうがい》の一瞬間にすぎない。もし生きるということが、おのれの誤謬《ごびゅう》を正し、おのれの偏見を征服し、おのれの思想と心とを日々に拡大する、というためでないならば、それは吾人になんの役にたとう? 待たれよ! たとい吾人に謬見《びゅうけん》あろうとも、しばらく許されよ。吾人はみずから謬見あるべきを知っている。そしておのれの誤謬を認むる時には、諸君よりもさらに苛酷《かこく》にそれをとがむるであろう。日々に吾人は、多少なりとさらに真理に近づかんと努めている。吾人が終末に達する時、諸君は吾人の努力の価値を判断せらるるであろう。古き諺《ことわざ》の言うとおり、「死は一生を讃《ほ》め、夕《ゆうべ》は一日を讃《ほ》む。」
一九〇六年十一月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改丁]
一 流沙
自由!……他人にも自分自身にもとらわれない自由! 一年この方彼をからめていた情熱の網が、にわかに断ち切れたのであった。いかにしてか? それは彼に少しもわからなかった。網の目は彼の生の圧力をささえることができなかった。強健なる性格が、昨日の枯死した包皮を、呼吸を妨ぐる古い魂を、荒々しく裂き捨てる、生長の発作の一つであった。
クリストフは何が起こったのかよくわからずに、ただ胸いっぱいに呼吸した。ゴットフリートを見送ってもどって来ると、氷のような朔風《さくふう》が、町の大門に吹き込んで渦《うず》巻いていた。人は皆その強風に向かって頭を下げていた。出勤の途にある工女らは、裳衣《しょうい》に吹き込む風と腹だたしげに争っていた。鼻と頬《ほお》とを真赤《まっか》にし、腹だたしい様子で、ちょっと立ち止まっては息をついていた。今にも泣き出しそうにしていた。クリストフは喜んで笑っていた。彼は嵐《あらし》のことを考えてはいなかった。他の嵐のことを、今のがれて来たばかりの嵐のことを考えていた。彼は冬の空を、雪に包まれた町を、苦闘しつつ通ってゆく人々を、ながめまわした。自分のまわりを、自分のうちを、見回した。もはや何かに彼をつないでるものはなかった。彼はただ一人であった。……ただ一人! ただ一人であることは、自分が自分のものであることは、いかにうれしいことだろう。つながれていた鎖を、思い出の苦痛を、愛する面影や嫌《けんお》悪すべき面影の幻を、のがれてしまったことは、いかにうれしいことだろう。ついに生きぬき、生の餌食《えじき》とならず、生の主人となることは、いかにうれしいことだろう!
彼は雪で真白くなって家に帰った。犬のように愉快げに身を揺った。廊下を掃いていた母のそばを通りかかると、あたかも子供にでも言うように、愛情のこもった舌ったるい声を出しながら、彼女を抱き上げた。年老いたルイザは、雪が融《と》けて湿ってる息子《むすこ》の腕の中で、身をもがいた。そして子供のような仇気《あどけ》ない笑いをしながら、「大|馬鹿《ばか》さん!」と彼を呼んだ。
彼は自分の居室へ大股《おおまた》に上がっていった。小さな鏡に顔を映したが、よく見えなかった。それほど薄暗かった。しかし彼の心は喜び勇んでいた。ろくに動きまわることもできないほどの狭い低い室も、彼には一王国のように思われた。彼は扉《とびら》を鍵《かぎ》で閉《し》め切り、満足して笑った。ついに自分自身をまた見出しかけていたのだ! いかに久しい前から自分を取り失っていたことだろう! 彼は急いで、自分の考えの中に沈潜していった。その思想は、遠く金色の靄《もや》の中に融《と》け込んでゆく大きな湖水のように思われた。苦熱の一夜を明かした後、足を清冽《せいれつ》な水に洗われ、身体を夏の朝の微風になでられながら、その湖水のほとりに立っていたのだ。彼は飛び込んで泳ぎ出した。どこへ行くのかわからなかった。しかもそれはほとんどどうでもいいことだった。ただ当てもなく泳ぎ回るのが愉快だった。彼は笑いながら、自分の魂の無数の音に耳傾けながら、黙っていた。魂には無数の生物がうごめいていた。何にも見分けられなかった。頭がくらくらした。ただ眩《まばゆ》いほどの幸福ばかりを覚えた。自分のうちにそれらの見知らぬ力を感じてうれしかった。そして自分の能力をためすことは不精げに後《あと》回しとして、まず内心に咲き乱れてる花に誇らかに酔って、陶然としてしまった。数か月来押えつけられていたのが、にわかに春が来たように、一時に咲きそろった花であった。
母は彼を食事に呼んでいた。彼は降りていった。一日戸外で暮らしたあとのように、頭が茫然《ぼうぜん》としていた。しかし彼のうちには深い喜悦の色が輝いていた。ルイザは彼にどうしたのかと尋ねた。彼は答えなかった。母の胴体をとらえて、スープ鍋《なべ》から湯気が立っている食卓のまわりを、無理に一回り踊らした。ルイザは息を切らして、彼を狂人だと呼びたてた。それから彼女は手を打った。
「まあ!」と彼女は気懸《きがか》りそうに言った、「また恋したのに違いない!」
クリストフは笑いだした。ナフキンを宙に投げた。
「恋だって!……」と彼は叫んだ、「おやおや……嘘《うそ》です、嘘です、もうたくさんだ。安心していらっしゃい。もうするもんですか、一|生涯《しょうがい》しません!……あああ!」
彼は水をなみなみと一杯飲み干した。
ルイザは安心して彼をながめ、頭を振り、微笑《はほえ》んでいた。
「当てにはならない酔っ払いの約束だね、」と彼女は言った、「まあ晩までのことでしょうよ。」
「それだけでも何かになるわけですよ。」と彼は上|機嫌《きげん》に答えた。
「なるほどね。」と彼女は言った。「だがいったい、どうしてお前さんはそううれしがってるんですか?」
「僕はうれしんです。それっきりです!」
彼は食卓に両肱《りょうひじ》をつき、彼女と向かい合いにすわって、今後どんなことをするか、それを彼女に話してやった。彼女はやさしい疑念の様子でそれに耳をかし、スープが冷《さ》めてしまうと静かに注意した。彼は自分の言うことを彼女が聞いていないのを知っていた。しかしそれを気に止めなかった。彼は自分自身にたいして語ってるのであった。
二人は微笑《ほほえ》みながら顔を見合っていた、彼は語り、彼女はよく耳も傾けずに。彼女は息子《むすこ》を自慢にしていたが、その芸術上の抱負にはたいして重きを置いていなかった。彼女は考えていた、「この人は幸福なのだ、それがいちばん肝心なことだ。」――彼は自分の話にみずから酔いながら、母のなつかしい顔を、頸《くび》には黒い襟巻《えりまき》を緊《ひし》とまとい、白い髪をし、若々しい眼で自分をやさしく見守《みまも》り、寛容にゆったりと落ち着いてる母の、その顔をながめていた。彼女の心のうちの考えがすっかり読み取られた。彼は冗談に言ってみた。
「お母さんにとってはどうでもいいことなんでしょうね、僕の話してることなんかは。」
彼女は軽く反対をとなえた。
「いいえ、いいえ!」
彼は彼女を抱擁した。
「なにそうですよ、そうですよ! まあ言い訳なんかしなくてもいいんですよ。お母さんの方が尤《もっと》もです。ただ、僕を愛してください。僕は人に理解してもらわなくてもいいんです。――あなたにも、だれにも。もう今じゃ、だれもいりません、何もいりません。自分のうちに何もかももってるんです……。」
「そうら、」と彼女は言った、「こんどはまた別な狂気|沙汰《ざた》になってきた!……だがそうならなければならないんなら、まだこんどの方がよい。」
おのが思想の湖上に漂う心楽しい幸福!……舟底に横たわり、身体は日の光に浴し、顔は水の面を走るさわやかな微風になぶられて、彼は宙に浮かびながらうとうととしている。寝そべった身体の下には、揺らめく小舟の下には、深い水が感ぜられる。手はひとりでに水に浸される。彼は起き上がる。子供のおりのように、舟縁《ふなべり》に頤《あご》をもたして、過ぎてゆく水をながめる。稲妻のように飛び去ってゆく、不思議な生物の輝きが見える……また他《ほか》のが、次にまた他のが……。いつもそれぞれ異なった生物である。彼は自分のうちに展開してゆく奇怪な光景に笑っている。自分の思想に笑っている。思想をどこにも固定させる必要はない。選ぶこと、それら数限りない夢想のうちになんで選択の要があろう? まだ時間は十分ある。……あとのことだ!……好きな時に網を投じさえすれば、水中に光っているのが見える怪物を、いつでも引き上げられるだろう。今はそれをただ通らしておく。……あとのことだ!
暖かい風とわからないくらいのかすかな流れとのままに、舟は漂っている。穏やかで、日が輝《て》り渡り、寂然《じゃくねん》としている。
ついに彼は懶《ものう》げに網を投じる。水沫《しぶき》の立つ水の上に身をかがめて、見えなくなるまで網を見送る。しばらくぼんやりしたあとに、ゆるゆると網を引く。引くに従って網は重くなる。水から引き上げようとする間ぎわに、ちょっと手を休めて息をつく。獲物を手に入れてることはわかるが、どんな獲物だかはわからない。彼は期待の楽しみをゆるゆると味わう。
彼はついに意を決する。燦然《さんぜん》たる甲鱗《こうりん》の魚類が、水から現われてくる。巣の中の無数の蛇《へび》のように、身をねじっている。彼はそれらを珍しげにながめ、指で動かし、美しいのをちょっと手に取りたくなる。しかし水から出すとすぐに、その光沢は褪《あ》せてきて、その姿が指の間に融《と》け込む。彼はそれを水に投げ込み、また他のを漁《あさ》り始める。自分のうちに動いてる幻想を、どれか一つ選び取るよりも、むしろそれらを皆代わる交わるながめてみたくなる。透明な湖水の中に自由に泳いでる時の方が、ずっと美しいものに思われる……。
彼はそのあらゆる種類のものを漁りだした。いずれも皆奇怪なものばかりだった。数か月来彼のうちにはあらゆる観念が積もっていて、しかも彼はそれを利用し費消することがなかったので、今やその豊富さになやんでいた。しかしすべてが雑然と交り合っていた。彼の思想は物置場であり、ユダヤ人の古物店であって、珍稀な器物、高価な布、鉄|屑《くず》、襤褸《ぼろ》などが、同じ室の中に堆《うずたか》く積まれていた。どれが最も価値あるものであるかを、彼は見分けることができなかった。いずれにも同じく興味がもてた。和音のそよぎ、鐘のように鳴り響く色調、蜜蜂《みつばち》の羽音に似た和声《ハーモニー》、恋せる唇《くちびる》のように微笑《ほほえ》む旋律《メロディー》。また、風景の幻影、人の面影、熱情、霊魂、性格、文学的観念、形而上学的《けいじじょうがくてき》観念。また、雄大不可能な大計画、あらゆるものを音楽で摘出し種々の世界を包括《ほうかつ》せんとする、四部作《テトラロジー》や十部作《デカロジー》
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