慢ができません!……」
 彼は驚き恐れて、母を抱擁しながらくり返した。
「お母さん、落ち着いてください、落ち着いてください、どうぞ!」
 しかし彼女は言いつづけていた。
「私には我慢ができません。……もうお前きりなんです。お前が発《た》ってしまったら、私はどうなるでしょう? 死んでしまうに違いありません。私はお前と離れて死にたくない。一人で死にたくない。私が死ぬまで待ってください!……」
 彼はその言葉に胸を裂かれる思いがした。どう言って慰めてよいかわからなかった。この愛情と悲しみとの訴えにたいしては、いかなる理由がよく抵抗し得ようぞ! 彼は彼女を膝《ひざ》に抱き上げて、接吻《せっぷん》ややさしい言葉で、気を鎮《しず》めさせようとした。老母は次第に口をつぐんで、静かに泣きだした。彼女が少し落ち着いた時、彼は言った。
「お寝《やす》みなさい。風邪《かぜ》をひきますよ。」
 彼女はくり返した。
「発《た》ってはいけません!」
 彼はごく低く言った。
「発ちません。」
 彼女は身を震わした。そして彼の手を取った。
「ほんとうですか。」と彼女は言った。「ほんとうですか?」
 彼はがっかりして顔をそむけた。
「明日《あした》、」と彼は言った、「明日、申しましょう……。私をこのままにしておいてください、お願いですから!……」
 彼女はすなおに立ち上って、自分の室へもどった。
 翌朝になると彼女は、狂人のように真夜中に絶望の発作に襲われたことが、恥ずかしくなった。そして息子がなんと言うだろうかとびくびくしていた。彼女は室の隅《すみ》にすわって待っていた。編み物を取ってそれに心を向けようとしたが、手が思うままにならないで取り落してしまった。クリストフがはいって来た。二人はたがいに顔を見合わせないで、小声で挨拶《あいさつ》をした。彼は陰鬱《いんうつ》な様子で、窓の前に立ち、母へ背中を向けて、黙り込んだ。彼のうちには闘《たたか》いがあった。前もってその結果はわかりすぎていたが、それを延ばそうとつとめていた。ルイザは彼に言葉をかけかね、待ちまた恐れている返辞を促しかねた。彼女はまた強《し》いて編み物を取り上げた。しかし何をしてるのか夢中だった。編み目はゆがんでいった。外には雨が降っていた。長い沈黙のあとに、クリストフは彼女のそばに来た。彼女は身動きもしなかったが、胸は動悸《どうき》していた。クリストフは不動のまま彼女をながめた。それからにわかに、そこにひざまずいて、母の長衣の中に顔を埋めた。そして一言も言わないで、涙を流した。その時彼女は、彼がとどまることを悟った。彼女の心は、死ぬほどのつらい苦しみから和らいだ。――しかしすぐに、苛責《かしゃく》の念が交ってきた。息子が犠牲にしてくれたすべてのものを、彼女は感じたのである。そして、彼が彼女を犠牲にした時に苦しんだすべてを、彼女が苦しみ始めた。彼女は彼の上に身をかがめてその額《ひたい》や髪に唇《くちびる》をあてた。二人は無言のうちに、涙と悲痛とを共にした。ついに彼は頭を挙げた。ルイザは彼の顔を両手にはさんで、眼の中を見入った。彼女は言いたかった。
「お発《た》ちなさい!」
 しかしそれを言うことができなかった。
 彼はこう言いたかった。
「喜んでとどまりましょう。」
 しかし彼はそれを言うことができなかった。
 どうにもできない情況だった。二人とも処置に困った。彼女は切ない愛情のうちに溜息《ためいき》をついた。「ああ、みんないっしょに生まれていっしょに死ぬことができるのだったら!」
 その素朴《そぼく》な願いが、彼のうちにやさしく沁《し》み通った。彼は涙をふいて、微笑《ほほえ》もうとつとめながら言った。
「いっしょに死にましょう。」
 彼女はなお尋ねた。
「確かですか。発《た》たないんですね。」
 彼は立ち上がった。
「きまったことです。もうそのことを言うのはよしましょう。またあともどりをするには及びません。」
 クリストフは言葉を違えなかった。もう出発のことを言い出さなかった。しかしそれを考えずにはいられなかった。彼はとどまった。しかしその犠牲の返報として、悲しい様子や不機嫌《ふきげん》さで母を悩ました。そしてルイザは、やり方が拙劣であって――自分は拙劣だと知りつつも、していけないことをかならずするほど、きわめて拙劣で――彼の悩みの原因を知りすぎていながら、しつこくそれを彼の口から言わせようとした。落ち着きのない煩《うるさ》い理屈っぽい愛情で彼をなやまし、二人はたがいに異なった性質であることを――彼が忘れようとつとめていたことを、始終彼に思い出さした。幾度彼は彼女に心のうちをうち明けたがったことだろう! しかし口を開こうとすると、いかんともできない壁が間につっ立った。そして彼は内心の思いを胸に潜めた。彼女はそれに気づいていた。しかし彼のうち明け話を求むることもなしかねたし、またどういうふうに求めていいかもわからなかった。思いきってやってみても、彼が胸につかえて言いたくてたまらながってるその思いを、ますます深く秘めさせるばかりだった。
 多くの些細《ささい》なことのために、罪のない癖のために、彼女はまたクリストフをいらだたせて、間をうとくならしていた。人のいいこの老母は少しぼけていた。彼女は近所の噂《うわさ》話をくり返したがった。また保母めいた愛情をもっていて、人を揺籃《ゆりかご》に結びつける子供時代のくだらない事柄を、しきりにもち出した。しかしそれからのがれるには、一人前の男となるには、もう非常に骨を折ってきたではないか。しかるにいまさら、ジュリエットの乳母《うば》のごときが現われてきて、汚ない襁褓《むつき》や、くだらない考えや、また、幼い魂が卑しい物質と息苦しい環境との圧迫に逆らう、あの厄介《やっかい》な時代を、一々述べたてなければならないというのか!
 それらのことの合い間には、彼女はいとやさしい愛情の発作を――あたかも赤ん坊を相手にしてるかのように――示すのであった。彼はそれに心をとらわれて、身をうち任せる――あたかも赤ん坊のように――のほかはなかった。
 最も悪いのは、彼らのように、朝から晩まで始終二人きりで、しかも他人から孤立して、暮らしてゆくことである。二人でいて苦しむ時には、たがいにその苦しみを医することができない時には、それを激烈ならしむるのは必然の勢いである。自分の苦しみの責《せめ》をたがいに転嫁し合い、実際にそうだと信じてしまう。それよりはむしろ一人きりの方がよい。苦しむのは一人きりだから。
 彼ら二人には毎日苦悩の日がつづいた。世間にしばしばあるごとく、偶然の事件が起こって、外見上不幸な――実は巧妙な――方法で、二人がもがいている残忍な不決定な状態を断ち切ってくれなかったならば、彼らは長くそれから脱し得なかったであろう。

 十月のある日曜日だった。午後四時のこと。天気は晴れ晴れとしていた。クリストフは終日室にとじこもって、「自分の憂鬱《ゆううつ》を嘗《な》め」ながら考え込んでいた。
 彼はもう我慢ができなかった。外に出て、歩き回り、精力を費やし、身体を疲らして、もう考えないようになりたくてたまらなかった。
 前日から母との間が気まずかった。なんとも言わないで出かけようとした。しかし階段の上まで来るうちに、彼女が独《ひと》りぽっちで一晩じゅう心配するだろうと考えた。彼は忘れ物があるという口実をみずから設けて、また室にもどった。母の室の扉《とびら》が半ば開いていた。彼はその間からのぞき込んだ。そして数秒の間母をながめた……。その数秒が、今後彼の生涯中いかなる場所を占めることになったか!……
 ルイザはその時、晩の祈祷《きとう》からもどって来たところだった。窓の隅の例の好きな場所にすわっていた。正面の家の亀裂《きれつ》のあるよごれた白壁が、ながめをさえぎっていた。しかし彼女がすわってる隅からは、右手の方に、隣家の二つの中庭の向こうに、ハンカチほどの芝生《しばふ》の片隅が見られた。窓縁には一|鉢《はち》の朝顔が絲にからんで伸びていて、ぶらさがってる梯子《はしご》の上にその細やかな蔓《つる》を広げていた。一条の光線がそれに当たっていた。ルイザは椅子《いす》に腰掛け、背を丸くして、大きな聖書を膝《ひざ》の上に開きながら、別に読んでもいなかった。両手を――筋が太くふくれて、労働者のように少し曲がってる四角な爪《つめ》のある両手を――聖書の上に平たくのせて、小さな植物と斜めに見える空の一角とを、しみじみとながめていた。金緑色の朝顔の葉から来る光の反射が、少し痣《あざ》のある疲れた顔を、ごく細かくてあまり濃くない白い髪を、微笑んで半ば開いてる口を、照らしていた。彼女はこの安息の時を楽しんでいた。それは彼女の一週間中で最もよい瞬間だった。苦しんでる者にとってはごく楽しい状態、何事も考えず、ただあるがままにうっとりとして、半睡の心だけが口をきいてくれる状態、それに彼女は浸っていた。
「お母さん、」と彼は言った、「少し出かけてみたいんです。ブイルの方を一回りしてきます。帰りは少し遅《おそ》くなるかもしれません。」
 うとうととしていたルイザは、軽く身を震わした。それから彼の方へ向き返り、平和なやさしい眼で彼をながめた。
「行っておいで。」と彼女は言った。「ほんとうにね、よいお天気だから。」
 彼女は微笑《ほほえ》んでみせた。彼もまた微笑み返した。二人はしばし顔を見合わしていた。それからたがいに頭と眼とで、ちょっとやさしい会釈をかわした。
 彼は静かに扉《とびら》を閉《し》めた。彼女はまた徐《おもむ》ろに夢想にふけった。色|褪《あ》せた朝顔の実にさしてる光線のように、息子の微笑みはその夢想に、一条の輝いた反映を投じていた。
 かくして、彼は母を置きざりにしたのであった――一生の間。

 十月の夕《ゆうべ》。青白い冷やかな太陽。懶《ものう》げな田舎《いなか》はまどろんでいる。村々の小さな鐘が、野の沈黙のうちにゆるやかに鳴っている。耕作地のまん中から、数条の煙が徐ろに立ち上っている。こまやかな靄《もや》が遠くに漂っている。ぬれた地面を覆《おお》っている白い霧が、夜の来るを待って立ち上ろうとしている……。一匹の猟犬が、地面に鼻をすれすれにして、甜菜《てんさい》の畑の中を駆け回っていた。小鳥の群れが幾つも、薄暗い空に舞っていた。
 クリストフは夢想にふけりながら、目当ても定めずに、しかも本能的に、一定の方向へ歩いていた。数週間以来、彼の散歩は、ある村の方へ向かいがちだった。そこへ行けばきっと、一人の美しい娘に出会うのだった。彼はその娘に心ひかれていた。それは単に好きだというにすぎなかったが、しかしごく強い多少不安な好き方だった。クリストフはだれかを愛せずにはほとんどいられなかった。彼の心はめったにむなしいことがなかった。偶像たるべき何かの美しい面影が、いつもすえられていた。愛してることをその偶像から知られるか否かは、多くの場合どうでもいいことだった。彼に必要なのは愛することだった。心の中が決してまっくらにならないこと、それが必要だった。
 こんどの新しい炎の対象は、ある農家の娘だった。エリエゼルがレベッカに会ったように、彼は彼女に泉のそばで会った。しかし彼女は彼に水を飲めとは言わなかった。彼の顔に水をはねかけたのだった。小川の岸のくぼんだ所、巣のように根を張ってる二本の柳の間に、彼女は膝《ひざ》をついて、勇敢にシャツを洗っていた。その舌も腕に劣らず活発だった。小川の向こう岸でせんたくをしている他の村娘たちと、盛んに談笑していた。クリストフは数歩離れて、草の上に寝そべっていた。そして両手に頤《あご》をのせて、彼女らをながめていた。彼女らはほとんどきまり悪がりもしなかった。時とすると生意気に聞こえる調子でしゃべりつづけていた。彼はあまり耳にも止めなかった。せんたく板の音や牧場の牛の遠い鳴き声などに交ってる、彼女らの笑い声の響きばかりを聞いていた。そして彼は、一人の美しい娘から眼を離さないで、ぼん
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