。それは愛せんがためには生きることを犠牲にし、また他人にも、自分の愛する人々にも、同じ犠牲を求めていた。ああ、単純なる魂の愛の力よ! その力は、たとえばトルストイのごとき不安定な天才の模索的理論や、あるいは死滅しつつある文明のあまりに精練されたる芸術などが、激しい闘争や傾け尽くされたる努力の一生――数世紀――を終わると、いかなる帰結に到着するかを、一目で見出させてくれる……。しかしながら、クリストフのうちにうなっていた傲然《ごうぜん》たる世界は、はるかに異なったる法則をもっていて、他の知恵を要求していた。
彼は久しい前から、自分の決心を母へ告げたがっていた。しかし母に与える苦しみを思っては、ひどく恐れていた。口へ出そうとすると、卑怯《ひきょう》な気持になって、また先へ延ばした。それでも二、三度彼は、おずおずと出発のことをほのめかした。しかしルイザはそれを真面目《まじめ》に取らなかった――おそらくは、彼自身にも冗談に言ってるのだと思わせんがために、真面目に取らないふうを装《よそお》ったのであろう。すると彼はもう言い進むことができなかった。ただ陰鬱《いんうつ》に考え込んでばかりいた。何か心に重い秘密でもあるがようだった。そして憐《あわ》れな彼女は、その秘密がなんであるかを直覚し得たので、その自白を遅らせようとこわごわつとめていた。晩に、たがいに近くランプの火影《ほかげ》にすわって、沈黙に陥るような場合に、彼女は彼が今にも言い出しはすまいかとにわかに感ずるのであった。すると彼女は恐ろしさのあまり、なんでも構わずでたらめなことを口早やに話し出した。自分でも何を言ってるのかわからないくらいだった。しかしどうしても彼が言い出すのを妨げなければならなかった。通例彼女は本能から、彼に沈黙を強《し》いる最上の事柄を見出していた。自分の健康状態を、脹《は》れてきた手足のことを、不随になりかかってる膝《ひざ》のことを、静かに訴えるのだった。彼女は自分の悩みを誇張して、もうなんの役にも立たない無能な婆《ばあ》さんになったと言った。だが彼はそういう幼稚な策略に欺かれなかった。無言の非難をこめて悲しげに彼女をながめていた。そして間もなく、疲れてるから床にはいるという口実で、座を立つのであった。
しかしそういう手段は長くルイザを救うことができなかった。ある晩、彼女がまたその手段に頼ると、クリストフは勇気を振るい起こして、老母の手に自分の手をのせて言った。
「お母さん、私は少しお話ししたいことがあるんです。」
ルイザははっとした。しかしにこやかな様子をしようとつとめながら、答えた――喉《のど》をひきつらして。
「どういうことですか。」
クリストフは口ごもりながらも、出発の意志を告げた。彼女はいつものとおり、それを冗談にして話をそらそうとした。しかし彼は気色を和らげないで、こんどはいかにも思い込んだ真面目《まじめ》なふうで言いつづけたので、もはや疑う余地はなかった。すると彼女は口をつぐみ、血の流れも止まり、無言のまま冷たくなって、怖《お》じ恐れた眼でじっと彼をながめた。そして非常な苦悶《くもん》の色が彼女の眼に上ってきたので、彼の方でも言葉が出せなくなった。そして二人とも默っていた。ついに彼女はほっと息をつくとともに、言った。――(その唇《くちびる》はふるえていた。)
「そんなことがお前……そんなことが……。」
大粒の涙が二つ彼女の頬《ほお》に流れた。彼はがっかりしてわきを向き、両手に顔を隠した。二人は泣いた。しばらくしてから、彼は自分の室にはいって、翌日まで閉じこもった。二人はもはやそのことを口先へも出さなかった。そして彼がなんとも言わないので、彼女は彼がその計画をやめたのだと信じようとした。それでもやはりたえず気にかかった。
そのうちに、彼はもう黙っておれなくなった。たとい彼女に断腸の思いをさせることになろうとも、ぜひとも話さなければならなかった。彼はあまりに苦しかったのだ。自分の苦しみにたいする利己心は、彼女に苦しみをかけるという考えに打ち克《か》った。彼は口を開いた。心が乱されるのを恐れて母を見ないようにしながら、終わりまで言い進んだ。もう二度と言い合うことがないように、出発の日まで定めた。――(この次になったら、今日ほどの悲しい勇気が出るかどうか、自分でもわからなかった。)――ルイザは叫んでいた。
「いえ、いえ、そんなことを言ってはいけません!……」
彼は身を堅くして、厳然たる決心をもって言いつづけた。言い終えると――(彼女はすすり泣いていた)――彼は彼女の手を取って、自分の芸術のため生命のためには、しばらく出かけることがいかに必要であるかを、彼女に了解させようとつとめた。彼女は聞くことを拒み、涙を流し、そしてくり返していた。
「いえ、いえ! いやです……。」
彼はいかに彼女へ理屈を説いても無駄《むだ》だったので、夜になったら彼女の考え方も変わるかもしれないと思って、そのまま座を立った。しかし翌日食卓でまたいっしょになると、彼は少しの思いやりもなくまた計画のことを言い始めた。彼女は唇《くちびる》にあてた一口のパンをとり落して、悲しい非難の調子で言った。
「では私を苦しめたいんだね。」
彼は心を動かされたが、それでも言った。
「お母さん、必要なことなんです。」
「いいえ、いいえ、」と彼女はくり返し言った、「そんな必要があるものですか……。私に心配をかけるためにです……まるで狂気の沙汰《さた》です……。」
二人はたがいに説服しようとした。しかしたがいに相手の言葉を耳に入れなかった。彼は議論の無駄なことを悟った。議論はたがいにますます苦しめ合うのに役だつばかりだった。そして彼は頑《がん》として、出発の準備を始めた。
ルイザは、いかに願っても彼を引き止めることができないのを見て取ると、陰鬱《いんうつ》な悲嘆のうちに沈み込んだ。終日室の中に閉じこもって、晩になっても燈火もつけなかった。もう口もきかず食事もしなかった。夜にはその泣き声が聞こえた。彼は身を切られるような思いをした。悔恨の情にとらえられて、夜通し眠れないで輾転《てんてん》しながら、床の中で苦しい声をたてた。それほど彼は母を愛していたのだ! なんのために彼女を苦しめなければならなかったのか?……ああ、苦しむのは彼女一人ではないだろう。彼にはそれがよくわかっていた……。なんのために運命は、愛する人々を苦しめるような使命をも果たさんとする欲求と力とを、彼のうちに置いたのであるか?
「ああ、もし私が自由であったら、」と彼は考えた、「もし私が、自分のなるべきものになろうとする、あるいはなれなかったら自分にたいする恥と嫌悪《けんお》とのうちに死のうとする、この残忍な力に縛られていなかったら、愛するあなたがたをいかに幸福ならしむることができることでしょう! けれどまず、私を生き活動し戦い苦しましてください。そしたら私はいっそうの愛をもっておそばにもどって来るでしょう。どんなにか私は、愛し、愛し、愛することだけをしたいんです!……。」
母の絶望的な魂の不断の非難が、もし黙っているだけの力をもっていたならば、彼は決してそれに対抗することができなかったろう。しかし気の弱いやや饒舌《じょうぜつ》なルイザは、胸ふさがるような心痛を自分一人に取っておくことができなかった。そして近所の女たちに話した。他の二人の息子《むすこ》にも話した。二人の息子は、クリストフを非難する絶好の機会を利用せずにはおかなかった。ことに、今ではほとんど理由もないのに兄を妬《ねた》みつづけていたロドルフは――クリストフのわずかな好評にもいらだって、あえて自認しかねるような下等な考えで、ひそかに兄の未来の成功を恐れていた(なぜなら、彼はかなり怜悧《れいり》であって、兄の実力を感じていたし、他人も自分と同様にそれを感じていはしないかと思っていたから)――そのロドルフは、自分の方がすぐれてるとしてクリストフを頭から押えつけるのを、この上もなく喜んだ。彼は母の困窮を知っていながら、かつてあまり気にかけたこともなく、母を助け得るだけの十分余裕ある身分でありながら、クリストフの世話にばかり任していた。ところがクリストフの計画を知ると、彼はただちに多くの愛情を示してきた。彼は母親を見捨てるという考えを憤慨して、それを恐るべき利己心だとした。彼は厚顔にも自分でやってきて、クリストフにそれを言った。あたかも鞭《むち》打ちに相当する子供にでも対するがように、ごく横柄《おうへい》に訓戒をたれた。母親にたいする義務や、母親が彼のためになした犠牲などを、傲慢《ごうまん》な様子で説ききかした。クリストフは危うく激怒するところだった。彼はロドルフを狡猾《こうかつ》漢だとし偽善の犬だとして、臀《しり》を蹴立《けた》てて追い出した。ロドルフはその仕返しに母を煽動《せんどう》した。ルイザは彼から刺激されて、クリストフが不孝者のような行ないをしてると思い込み始めた。クリストフには出発の権利がないとくり返し聞かされたし、それは彼女の信じたがってるところだった。彼女は最も強力な武器たる涙に頼ることをしないで、クリストフに向かって不当な非難を加えた。クリストフはそれに反感を覚えた。二人はたがいに厭《いや》なことを言い合った。その結果はただ、それまでなお躊躇《ちゅうちょ》していたクリストフに、出発の準備を急ごうと考えさせたばかりだった。慈悲深い隣人らが母を気の毒がってること、近所の評判では母を犠牲者だとし自分を酷薄漢だとしてること、それを彼は知った。彼は歯をくいしばって、もはや決心を翻さなかった。
日は過ぎ去っていった。クリストフとルイザとはほとんど口をきかなかった。たがいに愛し合っていたこの二人は、いっしょに過ごす最後の日々をできるだけ味わいつくそうともしないで、多くの愛情をも埋没せしむる無益な不機嫌《ふきげん》のうちに、残ってる時間を失っていった――世にはしばしばそういう例がある。二人は食卓で顔を合わせるばかりだった。しかも、たがいに向かい合ってすわりながら、眼を見合わせもせず、言葉を交えもせず、幾口かを無理に食べるだけで、それも食べるためではなく、むしろ体裁を保つための方が多かった。クリストフは辛《かろ》うじて、喉《のど》から二、三言しぼり出すこともあった。しかしルイザは返辞をしなかった。そしてこんどは彼女の方で口をきいてみると、彼の方で口をつぐんでしまった。かかる状態は二人には堪えられなかった。そしてそれが長引けば長引くほど、それから脱するのがますます困難になった。このままで二人は別れるのであろうか? ルイザは今となって、自分が不正で拙劣だったことを認めた。しかし彼女はあまりに苦しんでいたので、失ってしまったように思われる息子《むすこ》の心を、どうして取りもどしていいかわからなかったし、思ってもぞっとするほどのその出発を、どうしたらやめさせられるかわからなかった。クリストフは、母の蒼《あお》ざめてるはれぼったい顔を、ひそかにながめやっては、悔恨の念に責められた。しかしもう出発の決心を固めたことだし、自分の一生に関することだと知っていたので、悔恨の念からのがれるために、もっと早く出発しておけばよかったと卑怯《ひきょう》にも考えた。
彼の出発の日は翌々日となった。悲しい差し向かいの時がまた過ぎた。たがいに一言もかわさないで夕食を済ますと、クリストフは自分の室に退いた。そして机の前にすわり、両手に頭をかかえ、なんの仕事もできないで、一人悩んでいた。夜はふけた。もう一時に近かった。とふいに隣室で、物音がした。椅子《いす》がひっくり返った。扉《とびら》が開《あ》いた。シャツ一つの素足の母が、すすり泣きながら彼の首に飛びついてきた。彼女は熱で焼けるようになっていた。息子を抱きしめて、絶望の鳴咽《おえつ》のうちに訴えた。
「発《た》ってはいけません、発ってはいけません。お願いだから、お願いだから! ねえ、発ってはいけません!……私は死にそうです……我慢が、我
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