四歳の少女で、頬《ほお》がふくれ、太っちょで、林檎《りんご》のように真赤な色をし、反《そ》り返った太い短い鼻、大きな口、濃い縮み髪を頭に束ねていた。なおよくながめると、自分のによく似た古|鞄《かばん》を手にさげてることがわかった。彼女の方もまた、雀《すずめ》のように彼を横目にうかがっていた。そして彼からながめられてることを見て取ると、彼の方へ数歩寄ってきた。しかし彼の正面につっ立ったまま、一言も言わないで、廿日鼠《はつかねずみ》のような小さい眼で彼の顔をのぞき込んだ。クリストフは思い出した。ロールヘンの家の牛飼いの少女だった。彼は鞄を指《ゆびさ》しながら言った。
「僕へだろう、ね?」
 少女は身動きもしなかった。そしてとぼけた様子で答えた。
「どうですか。いったいどこからいらしたの。」
「ブイルから。」
「鞄を送った人はだれですか。」
「ロールヘンだ。さあ渡してくれ。」
 娘は鞄を差し出した。
「はい!」
 そして彼女は言い添えた。
「ああ、すぐにあなたとわかったわ。」
「では何を待っていたんだい。」
「あなただとおっしゃるのを待ってたの。」
「そしてロールヘンは?」とクリストフは尋ねた。「なぜ来なかったんだい。」
 少女は答えなかった。クリストフはこの人中では何も言いたくないのだなと悟った。まず荷物の検査を受けなければならなかった。それが済むと、クリストフはプラットホームの先端へ少女を連れていった。
「憲兵たちが来たのよ。」と少女はもう非常に饒舌《じょうぜつ》になって話した。「あなたが出かけると、すぐ入れ違いにやって来たのよ。方々の家へはいり込んで、みんなに尋ねて、ザーミ姉さんやクリスチャンやカスバル小父《おじ》さんなんかをつかまえたの。それからメラニーやゲルトルーデもつかまったの。何にもしなかったと喚《わめ》いても駄目《だめ》だった。泣いてたわ。ゲルトルーデは憲兵を引っかいたわ。何もかもあなたがしたんだと言っても、役にたたなかったのよ。」
「なに、僕が!」とクリストフは叫んだ。
「そうよ。」と少女は平気で言った。「あなたは逃げちゃったから、ちっとも構わないじゃないの? すると憲兵たちはあなたを方々捜して、あっちこっちへ追っかけて行ったわ。」
「そしてロールヘンは?」
「ロールヘンはいなかったの。町へ行ってから、あとでもどってきたのよ。」
「僕のお母さんに会ったのかしら。」
「ええ。これがその手紙よ。自分で来たがってたけれど、やっぱりつかまったの。」
「ではどうしてお前は来られたんだい。」
「こうよ。ロールヘンは憲兵に見つからないで、村に帰ってきて、それからまた出かけようとしたの。けれどゲルトルーデの妹のイルミナが、訴えたもんだから、捕《と》り手が来たのよ。憲兵たちが来るのを見ると、自分の室に上がっていって、すぐに降りてゆく、今着物を着てるから、と言いたてたの。私は裏の葡萄《ぶどう》畑にいたのよ。ロールヘンは窓から、リディア、リディア、って私を小声で呼ぶの。行ってみると、あなたのお母さんからもらってきた鞄《かばん》と手紙を、私に渡して、あなたに会える場所を教えてくれたの。駆けておゆき、つかまらないようにおし、と言われたわ。私は駆け出して、それからここへ来たのよ。」
「それきりなんとも言わなかったの!」
「言ったわ。自分の代わりに来たんだというしるしに、この肩掛も渡してくれって。」
 クリストフは、花の刺繍《ししゅう》と赤い玉のついてるその白い肩掛を見覚えていた。前夜ロールヘンが彼と別れる時、顔を包んでたものだった。彼女がそれを愛の記念に贈るために用いた、ほんとうらしからぬ無邪気な口実を聞いても、彼は笑えなかった。
「あら、」と少女は言った、「もう他《ほか》の汽車が来た。家へ帰らなきゃならないわ。さよなら。」
「まあお待ち。」とクリストフは言った。「来るのに、汽車賃はどうしたんだい。」
「ロールヘンからもらったの。」
「でもこれをもっておいで。」とクリストフは言いながら、彼女の手に数個の貨幣を握らした。
 彼はもう行こうとする少女の腕を取って引き止めた。
「それから……。」と彼は言った。
 彼は身をかがめて、彼女の両の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。少女は拒むような顔つきをしていた。
「いやがってはいけない。」とクリストフは冗談に言った。「お前にではないよ。」
「ええ、よくわかってるわ。」と娘はひやかし気味に言った。「ロールヘンにだわ。」
 クリストフが牛飼いの少女の両の豊頬《ほうきょう》で接吻したのは、単にロールヘンをばかりではなかった。自分のドイツ全体をであった。
 少女は逃げ出して、発車しかけてる汽車の方へ走っていった。彼女は車室の入口に残って、見えなくなるまで彼へハンカチを振っていた。故国と愛する人々との息吹《いぶ》きを最後にもたらしてきた使者の田舎《いなか》娘を、彼はじっと見送った。
 彼女の姿が見えなくなると、彼はこんどこそまったく異境の孤客となった。彼は母の手紙と恋しい肩掛とを手にしていた。肩掛を胸に抱きしめて、それから手紙を開こうとした。しかし彼の手は震えた。いかなることが読まれるだろうか? いかなる苦しみをそこに見出すだろうか?……いや、すでに聞こえるような気がするその悲しいとがめには、堪えることができないだろう。引き返して帰ることにしよう。
 彼はついに手紙を開いた。そして読んだ。

[#ここから2字下げ]
 私の憐《あわ》れな子よ、私のことを心配しないでください。私は物わかりよくしましょう。神様が私を罰せられたのです。私は自分のためばかりを思ってお前を引き止めてはいけないのでした。パリーへお行きなさい。たぶんその方がお前のためにはいいでしょう。私のことは気にしないでください。どうにかやってゆくことができます。いちばん肝心なのは、お前が幸福であることです。私はお前を抱擁します。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]母より
[#ここから2字下げ]
できる時には手紙をください。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは鞄《かばん》の上にすわって泣いた。

 駅夫がパリー行きの乗客を呼んでいた。重い列車が轟然《ごうぜん》たる音をたてて到着しかけていた。クリストフは涙をぬぐい、立ち上がってみずから言った。
「やむを得ない。」
 彼はパリーの方面の空をながめた。一面に薄暗い空は、その方面ではいっそう暗澹《あんたん》としていた。陰暗な深淵《しんえん》のようであった。クリストフは胸迫る気がした。しかしみずからくり返した。
「止むを得ない。」
 彼は汽車に乗った。そして窓からのぞき出しながら、気味悪い地平線をながめつづけた。
「おおパリーよ!」と彼は考えていた。「パリーよ! 僕を助けてくれ。僕を救ってくれ。僕の思想を救ってくれ!」
 薄暗い霧は濃くなっていった。クリストフの後方には、去ってゆく故国の上には、両の眼ほどの――ザビーネの両の眼ほどの――薄青い空の片隅《かたすみ》が、重々しい雲の切れ目から、寂しげに微笑《ほほえ》み出して、そのまま消えていった。汽車は出た。雨が降った。夜になった。



底本:「ジャン・クリストフ(二)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年7月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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