ットペチミットをも忘れなかった。クンツの方でも、シュルツと他の数人のために杯を挙げた。そしてクリストフは、それらの祝杯に終わりをつけるために、ザロメさんのために杯を干した。ザロメは真赤《まっか》になった。そのあとで彼は、弁士らに返答の余裕を与えないで、よく世に知れてる歌謡を歌った。二人の老人もいっしょにやりだした。その後でまた他の唄《うた》を歌い、なお次に、友情と音楽と葡萄酒《ぶどうしゅ》とに関するものを、三部合唱で歌った。響きわたる笑声とたえず触れ合う杯の音とで、すべてが伴奏された。
彼らが食卓から立ち上がったのは、三時半であった。皆少しけだるくなっていた。クンツは肱掛椅子《ひじかけいす》にぐったりとすわった。ちょっと一眠りしたいほどだった。シュルツは午前中の興奮とまた祝杯の酔いのために、足がよろよろしていた。二人とも、クリストフがまたピアノについて幾時間も弾奏することを、希望していた。しかしきわめて快活軽敏なこのひどい青年は、ピアノで三、四の和音をひいてから、にわかにその蓋《ふた》を閉じ、窓から外をながめて、夕食までの間に一回りしてきてもよいかと尋ねた。野の景色が彼をひきつけたのだった。クンツはあまり気乗りの様子を見せなかった。しかしシュルツは即座に、それをいい考えだと思い、シェーン[#「シェーン」に傍点]・ブッフ[#「ブッフ」に傍点]・ワルデル[#「ワルデル」に傍点]の遊歩場を客に見せなければいけないと思った。クンツはちょっと顔をしかめた。しかし別に逆らいはしないで、いっしょに立ち上がった。彼もやはりシュルツと同様に、土地の美景をクリストフに見せたかった。
彼らは出かけた。クリストフはシュルツの腕をとって、老人の気ままな足取りよりも少し早く歩かせた。クンツは汗をふきながらあとにつづいた。彼らは快活にしゃべっていた。人々は門口に立って彼らが通るのをながめ、シュルツ教授の若返ってる様子を認めた。彼らは町から出ると、牧場を横切った。クンツは暑いのをこぼしていた。クリストフは思いやりもなく、空気がさわやかだと言っていた。二人の老人らにとって仕合わせなことには、皆はたえず立ち止まっては議論をし、譜のうちに道の長さが忘れられた。森の中にはいった。シュルツはゲーテとメーリケとの詩句を誦《しょう》した。クリストフは詩がたいへん好きだった。しかしその詩を一句も聞き止めることができなかった。彼は耳を傾けながらぼんやりした夢想に身を任せ、夢想の中で言葉は音楽に代わって、その言葉をすっかり忘れてしまった。彼はシュルツの記憶に感嘆した。一年の大部分は室の中に閉じこもり、ほとんど一生の間|田舎《いなか》の町に閉じこもってる、不具に近いこの病身な老人の元気――それからまた年若くて、芸術運動の中心地に名声を馳《は》せ、そして各地の演奏のためにヨーロッパじゅうを歩き回り、しかも何物にも興味を覚えず、何物をも知ろうとしないハスレル、両者の間にはいかに大なる差異があることぞ! シュルツは単に、クリストフが知ってる現在の芸術界の諸相に通じてるばかりでなく、クリストフが聞いたこともないような過去の音楽家や外国の音楽家などについても、豊富な知識をもっていた。彼の記憶は深い天水|桶《おけ》のようであって、あらゆる清い天水が蓄《たくわ》えられていた。クリストフはあきずにその水をくみ出した。そしてシュルツはクリストフの興味を見てうれしがった。彼は時々、慇懃《いんぎん》な聞き手や従順な学生などに出会うこともあった。しかしながら、息づまるまでにあふれてくる感激の情を分かち得るような若い熱烈な心を見出すことは、かつてなかったのである。
彼らが最もうち解けている最中に、老人はおり悪《あ》しく、ブラームスにたいする賛辞を述べた。クリストフは冷やかな憤りにとらわれた。彼はシュルツの腕を放して、なぐりつけるような調子で、ブラームスを愛する者は自分の味方であり得ないと言った。彼らの喜びはそのために冷水を注がれた。シュルツは議論するにはあまりに気おくれがしていたし、嘘《うそ》をつくにはあまりに正直だったので、弁解しようとつとめながら口ごもっていた。しかしクリストフは一言で彼をさえぎった。
「たくさんです!」
その鋭利《えいり》な調子は返答を許さなかった。冷たい沈黙がきた。彼らは歩きつづけた。二人の老人は顔をも見合わしかねた。クンツは咳《せき》払いをしてから、また話の糸を結ぼうと試み、森や天気のことを言おうとした。しかしクリストフは不機嫌《ふきげん》な様子をして、話を進めてゆこうともせず、一言二言の答えをするばかりだった。クンツはこの方で反響を見出さないので、沈黙を破るために、シュルツと話そうとつとめた。しかしシュルツは喉《のど》をつまらしていて、口をきくことができなかった。クリストフはそれを横目で見やって、笑いたくなった。彼はもう許してやっていた。彼は決して真面目《まじめ》に怒るつもりではなかった。この憐《あわ》れな老人を悲しませるのは畜生にも等しいとさえ思っていた。しかし彼は自分の力を濫用したのであって、また、前言を翻す様子をしたくなかったのである。彼らは森を出るまでそのままの状態だった。聞こえるものはただ、当惑してる二人の老人の引きずるような足音ばかりだった。クリストフは口笛を吹いて、二人の方を見ないふうをしていた。とにわかに、彼はたまらなくなった。彼は放笑《ふきだ》して、シュルツの方へ振り向き、丈夫な手でその両腕をつかんだ。
「ああ、シュルツ!」と彼はやさしげにその顔をながめながら言った、「いいですね、いいですね!……」
彼は景色と天気とのことを言ってるのだった。しかし笑ってる彼の眼はこう言ってるがようだった。
「あなたはいい人だ。僕は乱暴者だ。勘弁してください。僕はあなたが大好きだ。」
老人の心は解けた。日食のあとにまた太陽が出たようなものだった。一瞬間待たなければ言葉を発することができなかった。クリストフはまた彼の腕をとって、このうえもなく親しげに話しだした。夢中になったあまり足を早めて、二人の連れをへとへとにならしてることは気にも止めなかった。シュルツは不平をこぼさなかった。疲れをさえ気づかないほど満足していた。今日一日の不用心な行ないのために、やがてひどい目に会うことも知ってはいた。しかしこう考えていた。
「明日にとっては災難だ! けれど彼が発《た》ってから、身体を休める隙《ひま》は十分あるだろう。」
しかしクンツは、それほど興奮してはいないで、かわいそうな顔つきをして十五、六歩あとからつづいていた。クリストフはようやくそれに気づいた。彼は恐縮して詫《わ》びた。そして牧場の白楊樹《はくようじゅ》の影に寝そべろうと言いだした。シュルツはもとより承知した。それが自分の気管支炎にさわるかどうかも考えなかった。幸いにも、クンツは彼に代わってそのことを考えてくれた。もしくは少なくとも、汗びっしょりになってる自分の身体を牧場の冷気にさらさないために、それを口実とした。次の停車場から汽車に乗って町へ帰ろうと提議した。それに一決された。彼らは疲れていたけれども、乗りおくれないために足を早めなければならなかった。そしてちょうど汽車がはいってくる時に停車場へ着いた。
彼らの姿を見て、一人のでっぷりした男が、車室の入口に飛び出してき、狂人のように両腕を振り動かしながら、あらゆる肩書をくっつけてシュルツとクンツの名前を吼《ほ》えたてた。シュルツとクンツとの方でもまた、両腕を競り叫びながらそれに答えた。二人はその大男の車室へ駆けつけ、大男の方でも、他の乗客らをつきのけながら駆け寄ってきた。クリストフは呆気《あっけ》に取られて、二人をあとから追っかけてゆきながら尋ねた。
「なんですか。」
二人は雀躍《こおどり》しながら叫んでいた。
「ポットペチミットだ!」
その名前は、彼には大した感じを与えなかった。彼は午餐のおりの祝杯のことを忘れていた。ポットペチミットは客車の入口に立ち、シュルツとクンツとは踏段の上に立って、やかましくしゃべりたてていた。彼らはその幸運に感激していた。皆が汽車に乗ると、汽車はすぐに出た。シュルツは紹介してやった。ポットペチミットはにわかに石のように顔を引きしめ、棒杭《ぼうくい》のように堅くなって、お辞儀をし、一通りの挨拶《あいさつ》を済ますや否や、クリストフの手に飛びついて、それをもぎ取ろうとでもするように五、六度打ち振り、そして叫び出した。クリストフはその叫び声のうちに、彼がこの奇遇を神と運命とに感謝してることを見て取った。それでも彼はすぐあとで、腿《もも》をたたきながら、ちょうど先生[#「先生」に傍点]の御到着のおりに、町から出かけていた――かつて町から出かけたことのない自分が出かけていた――不運を、ののしらずにはいなかった。シュルツの電報は、その朝汽車が出て一時間後にしか、彼の手に渡らなかった。電報が着いた時彼は眠っていて、人々は彼を起こさない方がいいと思ったのだった。それで彼は朝じゅう、旅館の者らにたいして怒りたっていた。今もまだ怒りたっていた。彼は患者筋の人々を追い帰し、用件の面会を断わり、帰りを急いで手当たり次第の汽車に乗った。しかしこのやくざな汽車は、本線と連絡していなかった。ポットペチミットはある駅で、三時間も待たなければならなかった。そこで彼は、知ってる限りの憤慨の言葉を言い尽くし、自分と同じように待たされてる乗客やまた駅夫などに、幾度となく自分の不運を物語った。ついに汽車が出た。彼はもう間に合わないかと恐れていた。……しかし、ありがたいことには、ありがたいことには!……
彼はふたたびクリストフの手を取って、毛深い指のある大きな手のひらの中で、それをなで回した。彼は驚くはどでっぷり太っていて、またその割合に背も高かった。四角な頭、短く刈った褐色《かっしょく》の髪、痘痕《あばた》のある無髯《むぜん》の顔、太い眼、太い鼻、太い唇《くちびる》、二重|頤《あご》、短い首、恐ろしく大きな背中、樽《たる》のような腹、胴体から分かれ出てる腕、馬鹿に大きな手足、食物とビールとを取り過ぎて変形した巨大な肉塊、それはあたかも、煙草の鑵《かん》のような人間だった。バヴァリアの町に行くと、そういう人間が通りをぶらついてることがある。籠《かご》の中の鶏に施すのと同じような飽食の方法によってでき上がった一種の人種、その秘訣《ひけつ》を彼らは保持しているのである。ポットペチミットは喜びと暑さとのために、バタの塊《かたまり》みたいに光っていた。そして自分の開いてる膝《ひざ》に、あるいは隣りの者の膝の上に、両の手を置いて、飽かずに口をききながら、弩《いしゆみ》のような強さで子音を空中にころがしていた。時々大笑いをしては、全身を揺ぶった。頭を後ろに反り返らして、口を開き、鼻や喉《のど》に息をはずませ、胸をつまらしていた。その笑いはシュルツやクンツにも伝わった。二人は笑いの発作が済むと、眼の涙をふきながらクリストフをながめた。あたかも彼に尋ねるがような様子だった。
「ねえ……この男をどう思われます?」
クリストフはなんとも思ってはいなかった。ただ彼は気味悪く考えていた。
「この化《ば》け物が俺《おれ》の音楽を歌うのかな。」
一同はシュルツの家へもどった。クリストフはポットペチミットの歌を避けたがっていた。聞かせたくてたまらないでいるポットペチミットがほのめかしても、彼はなんとも言い出さなかった。しかしシュルツとクンツとは、その友を自慢にしたい心でいっぱいだった。仕方がなかったので、クリストフはかなり厭々《いやいや》ながらピアノについた。彼はこう考えていた。
「このお人よしめが! どういう目に会うか知らないんだな。用心するがいい。少しも容赦はしないぞ。」
彼はシュルツに心配をかけるだろうと考え、それが気の毒になった。それでも彼は、このジョン・フォルスタフのような男から自分の音楽が台なしにされるのを我慢するよりは、むしろシュルツに心配をかけたって構わないと決心
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