した。ところが、シュルツに心配をかけるのを恐れるには及ばなかった。大男はすてきな声で歌った。最初の小節からして、クリストフは驚きの身振りをした。彼から眼を離さなかったシュルツは、身を震わした。クリストフが不満足に思ってると考えたのだった。そして彼がようやく安心したのは、弾《ひ》き進むに従ってクリストフの顔がますます輝いてくるのを見てからだった。彼自身もその喜びの反映を受けて晴れやかになっていった。その楽曲が終わり、自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]がこんなによく歌われたのをかつて聞いたことがないと叫びながら、クリストフが振り向いた時、シュルツの歓《よろこ》びは、満足してるクリストフの歓びよりも、得意げなポットペチミットのそれよりも、さらに楽しい深いものだった。なぜなら、二人は自分自身の愉快だけしか感じてはいなかったが、シュルツは二人の友の愉快を感じていたのだから。演奏はなおつづいていった。クリストフは驚嘆していた。この重々しい平凡な男が、どうして自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の思想を現わし得るかを、彼は了解できなかったのである。もとより、正確な色合いがすっかり出てはいなかった。しかし、彼がかつて専門の歌手らに完全に吹き込むことのできなかった、溌剌《はつらつ》さが熱情が現われていた。彼はポットペチミットをながめ、いぶかっていた。
「ほんとうに感じてるのかしら。」
 しかし彼は相手の眼の中に、満足してる驕慢《きょうまん》心の炎以外に、なんらの炎をも認めなかった。無意識的な一つの力がその重い肉塊を動かしていた。その盲目的な消極的な力は、相手も知らず理由も知らないで戦う軍隊に似ていた。歌曲[#「歌曲」に傍点]の精神はその力をとらえ、その力は喜んで服従していた。ただ活動したかったからである。自分一人に任せられると、どうしていいかわからなかったであろう。
 クリストフは考えた。宇宙の偉大なる彫刻家はその創造の日において、形のでき上がった被造物の離れ離れの各部を整頓《せいとん》することには、あまり心を用いなかったに違いない。いっしょに集まってうまくゆくようにできてるかどうかには頓着《とんじゃく》なく、ともかくも各部をくっつけてみたのだ。それで各人は、あらゆる方面から来た断片で作られることになった。そしてまた、同一人が別々な五、六人の中に分散することとなった。頭脳はある者の中にはいり、心は他の者の中にはいり、この魂に適した身体は、また別な者の有となった。楽器は一方にあり、その演奏者は他方にあるようになった。ある者らは、演奏者がなくて永久に箱に納められてる、みごとなヴァイオリンのようになった。演奏するために作られた者らは、生涯|惨《みじ》めな楽器で満足しなければならなくなった。とこういうふうに彼が考えたのは、かつて一ページの音楽をも自分がうまく歌い得ないことを憤慨していたあまりでもあった。彼は調子はずれの声をもっていて、自分の歌を聞くと厭《いや》にならざるを得なかった。
 やがてポットペチミットは自分の成功に酔って、クリストフの歌曲[#「歌曲」に傍点]に「表情をつけ」始めた。言い換えれば、クリストフの表情を自分の表情と置き代え始めた。クリストフはもとより、そのために自分の音楽がよくなったとは思わなかった。彼の顔は曇ってきた。シュルツはそれに気づいた。彼には批評眼がなく、また友人らに感心してばかりいたので、みずからポットペチミットの悪趣味を認めることはできなかった。しかしクリストフにたいする愛情のために、その青年の考えの最も隠微な色合いをも見て取ることができた。彼はもはや自分のうちにはいないで、クリストフのうちにいた。そして彼もまた、ポットペチミットの誇張に厭な気がした。その危険な傾向から引き止めてやろうと工夫した。けれどポットペチミットの口をつぐませることは容易でなかった。彼はクリストフの曲を皆歌いつくすと、クリストフがその名前を聞いただけでもすでに豪猪《やまあらし》のように髪を逆立てた、凡庸《ぼんよう》作家の力作を歌おうとしたので、シュルツはそれを止めさせるためにどんなに苦心したかわからなかった。
 幸いにも晩餐の知らせがあったので、ポットペチミットは口をつぐんだ。そして彼の腕前を示すべき別な戦いとなった。こんどは彼の独《ひと》り舞台だった。クリストフは午餐の時に手柄を立ててやや食い疲れていたので、もう少しも彼と争おうとしなかった。
 夜はふけていった。食卓のまわりにすわって三人の老人連中は、クリストフを見守っていた。彼らは彼の言葉を一々のみ下していた。かくて現在、この辺鄙《へんぴ》な小さな町で、今日まで一面識もなかった老人たちに取り囲まれ、ほとんど家族以上に彼らと親密にしているということが、クリストフにはきわめて不思議に思われた。世の中に自分の思想が出会う未知の友のいることを想像し得るとしたならば、それは芸術家にとっていかに仕合わせなことだろう――そのために芸術家の心はどんなにか温《あたた》められ、力はどんなに増すだろう、とクリストフは考えた。……しかしたいていはそういうことは起こらない。人は強く感ずれば感ずるほど、そしてそれを言いたければ言いたいほど、ますます感じてることを言うのを恐れながら、いつまでも一人ぽっちであって、一人ぽっちで死んでゆく。阿諛《あゆ》的な俗人らはなんの苦もなくしゃべりたてる。最も深く愛してる人々は、口を開いてそして愛してると言うためには、ひどく気持の苦労をせざるを得ない。それゆえに、あえて言い得る人々には感謝しなければいけない。そういう人々はみずから知らずして、創作家の協力者である。――クリストフは、シュルツ老人にたいする感謝の念を心から覚えた。彼はシュルツ老人と他の二人の仲間とを混同しなかった。シュルツこそこの少数の友人連中の魂であると、彼は感じた。他の二人は、この温情との生きた竈《かまど》の反映にすぎなかった。彼にたいするクンツとポットペチミットとの友情は、だいぶ異なっていた。クンツは利己主義者だった。愛撫《あいぶ》される太い猫《ねこ》が感ずるような一種の安逸な満足の情を、音楽から得てるのであった。ポットペチミットは音楽のうちに、驕慢と肉体運動との快楽を見出してるのであった。どちらもクリストフを理解しようとはつとめていなかった。しかしシュルツはまったく自分を忘れていた。彼は愛していたのである。
 もう晩《おそ》かった。招かれてる二人の友は夜中に帰っていった。クリストフはシュルツと二人きりになった。彼は言った。
「こんどはあなた一人のためにひきましょう。」
 彼はピアノについてひいた――だれか親愛な人がそばにいる時|弾《ひ》いてやるようなふうに。彼は自分の新作をひいた。老人は恍惚《こうこつ》としていた。クリストフのそばにすわって眼も放さず、息を凝らしていた。そしてわずかな幸福も独占することができないで、親切な心のあまり、彼は知らず知らずくり返した(クリストフを少しいらだたせることだったが)。
「ああ、クンツが帰ったのが残念だ!」
 一時間たった。クリストフはやはりひきつづけていた。二人は言葉をかわさなかった。クリストフが弾き終わっても、どちらからもなんとも言わなかった。すべてが沈黙していた。家も街路も眠っていた。クリストフは振り向いた。老人の泣いてるのが眼に止まった。彼は立ち上がって、そのそばに行って抱擁してやった。二人は夜の静けさの中で、声低く話した。掛時計の秒を刻む鈍い音が、隣りの室で響いていた。シュルツは両手を握り合わせ、身体を前にかがめて、小声で話した。クリストフに尋ねられて、身の上や悲しい事柄を物語った。そしてたえず、愚痴を並べることを恐れては、こう言わざるを得なかった。
「私が悪かった……私は不平を言う権利はない……私は皆からたいへん親切にしてもらった……。」
 そして彼は実際不平を言ってるのではなかった。それはただ、孤独な生活のつつましい物語から出てくる、無意識な憂愁にすぎなかった。最も悲しい刹那《せつな》には、ごく漠然《ばくぜん》とした感傷的な理想主義の信念告白を交えた。クリストフはそれに悩まされたが、しかし抗弁するのも残酷だった。要するにシュルツのうちにあるものは、確固たる信念よりもむしろ、信ぜんとする熱烈な欲求――不確かな希望であった。彼はそれに、浮標へすがるようにすがりついていた。彼はクリストフの眼の中にその確認を求めていた。クリストフは、切実な信頼の念をもって自分を見入り、自分の答えを懇願し――こう答えてくれと指図してる、友の眼の訴えを心に聞いた。すると彼は、落ち着いた信念と力との言葉を言ってやった。老人はそれを待っていて、それから慰謝を受けた。老人と青年とは、間を隔ててる年月をうち忘れた。二人はたがいに接近して、愛し合い助け合う同年輩の兄弟のようであった。弱い方は強い方に支持を求めていた。老人は青年の魂の中に避難していた。
 彼らは十二時過ぎに別れた。クリストフは乗って来たのと同じ列車に乗るために、早く起きなければならなかった。それで服をぬぎながらぐずついていなかった。老人は客の室を、幾月もの滞在を強《し》いるかのようにしつらえていた。花瓶《かびん》にいけた薔薇《ばら》と一枝の月桂樹《げっけいじゅ》とを、テーブルの上にのせておいた。机の上には真新しい吸取紙を備えておいた。朝のうちに、竪形《たてがた》ピアノを運ばせておいた。自分の最も大事な最も好きな書物を数冊選んで、枕頭《ちんとう》の小棚《こだな》にのせておいた。どんな些細《ささい》なものも、愛情をこめて考えなかったものはない。しかしそれは徒労に終わった。クリストフは何にも見なかった。彼は寝台に飛びのって、すぐにぐっすり寝入った。
 シュルツは眠らなかった。自分の受けたあらゆる喜びや、友の出発について今から感じてるあらゆる悲しみなどを、一時に考え出していた。二人で言いかわした言葉をまた頭に浮かべていた。自分の寝台のよせかけてある壁の彼方《かなた》に、すぐ近くに、親愛なるクリストフが眠ってることを、考えていた。疲れはててがっかりしぬいていた。散歩の間に冷えて、病気が再発しかけてると感じていた。しかし彼はただ一つのことしか思ってはいなかった。
「彼が発《た》ってしまうまでもちこたえさえすれば!」
 そして咳《せ》き込むと、クリストフを起こしはすまいかとびくびくしていた。彼は神にたいする感謝の念で、いっぱいになっていて、老シメオンの今や逝せ給え[#「今や逝せ給え」に傍点](訳者添、今や僕(しもべ)を安全に世を逝(さら)せ給え)という聖歌に基づいて、詩を作りはじめた。……作った詩を書くために、汗まみれになって起き上がった。そして長くテーブルにすわって、ていねいにそれを書き直し、愛情のあふれた捧呈《ほうてい》文をつけ、下部に署名をし、日付と時間とを書き入れた。それから、震えが出てまた床についたが、もう夜通し身体が温《あたた》まらなかった。
 曙《あけぼの》がきた。シュルツは残り惜しい心持で、前日の曙のことを考えた。しかしそういう考えで、残ってる最後の幸福の瞬間を乱すことを、みずから責めた。翌日になったらただいま去りつつある時間を愛惜するようになるだろうと、よく知っていた。彼はこの時間を少しも無駄《むだ》に失うまいとつとめた。彼は隣室のわずかな物音にも耳を澄ました。しかしクリストフは身動きもしなかった。彼は寝た通りの場所にまだ横たわっていて、少しも身を動かしてはいなかった。六時半が鳴った。彼はまだ眠っていた。彼に汽車を乗り遅らせることは訳もないことだった。そしてきっと彼はそれを笑って済ますに違いなかった。しかし老人は小心翼々としていて、友のことを承諾も得ずに勝手にきめることはできなかった。彼はいたずらにくり返し言った。
「私のせいじゃない。私にはなんの責《せめ》もあるまい。ただ知らせないだけでいいのだ。そして彼がおりよく眼を覚《さ》まさなかったら、私はも一日彼といっしょに過ごせるのだ。」
 しかしこうみずから答え返した。
「いや、私には
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