のまま去ってしまおうと考えていたが、すぐに老人の誠実親切な魂を感じて、彼を愛しだした。家に着くまでにはもう、二人は種々なことをたがいにうち明けていた。
 家へはいると、クンツがいた。彼はシュルツがクリストフを捜しに出かけたことを聞いて、落ち着き払って待っていたのである。牛乳入りのコーヒーが出された。しかしクリストフは、町の旅舎で朝食をしたと言った。シュルツ老人は失望した。この土地でのクリストフの最初の食事が自分の家でなされなかったことは、彼にとって真の悲しみだった。それらのつまらない事柄も、彼の愛情深い心にとっては非常に大事なことだった。クリストフはそれを見て取って、ひそかに面白がり、そしてますます彼を好きになった。彼を慰めんがために、二度朝食をしたいほど空腹だと言った。そしてそれを実際に証明した。
 不快な気持はことごとく彼の頭から去った。彼はほんとうの友人らの間にある心地がし、生き返った気がした。旅のことを、苦々《にがにが》しい事柄を、滑稽《こっけい》化して語った。休暇を得た学生のようなふうだった。シュルツは晴れやかな様子で、彼をじっと見守り、心から笑っていた。
 ひそかな糸で三人を結びつけていたところのもの、すなわちクリストフの音楽に、話はやがて転じていった。シュルツは、クリストフが自分の作品を少しひくところを聞きたくてたまらなかったが、しかしそれを頼みかねていた。クリストフは話しながら、室内を大股《おおまた》に歩いていた。彼が開いたピアノのそばを通りかかると、シュルツはその足つきをうかがった。彼がそこに立ち止まるようにと願った。クンツも同じ思いだった。二人は心を躍らせた。見ると、彼はなお話しつづけながら、機械的にピアノの腰掛にすわり、それから、その楽器へは眼もやらずに、ふと鍵《キイ》の上に手を動かした。シュルツは期待していたので、クリストフが少し琵音《アルペジオ》を奏すると、すぐにその音に心を奪われてしまった。彼はなお話しながら、和音をひきつづけた。それから、楽句全体をひいた。するともう彼は口をつぐんで、ほんとうに演奏しだした。二人の老人は、賢い狡猾《こうかつ》なうれしげな一|瞥《べつ》をかわした。
「これを知っていますか。」とクリストフは自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の一つをひきながら尋ねた。
「知っていますとも。」とシュルツは大喜びをして言った。
 クリストフはなお演奏をやめないで、半ばふり返りながら言った。
「ね、このピアノはあまり上等でありませんね。」
 老人はひどく恐縮した。彼は詫《わ》びた。
「古物です、」と彼はつつましく言った、「私と同じです。」
 クリストフはすっかり向き返り、自分の老衰について許しを乞《こ》うてるような老人をながめ、笑いながらその両手をとった。彼はその誠実な眼を見守った。
「なに、あなたは、」と彼は言った、「あなたは僕より若いですよ。」
 シュルツはうちとけた笑いをして、自分の老体や疾病《しっぺい》のことを話した。
「いやいや、」とクリストフは言った、「そんなことじゃない。僕は真面目《まじめ》に言ってるんです。ほんとうでしょう、ねえクンツ。」
 (彼はもう「さん」という敬語を省いていた。)
 クンツはある限り力をこめてそれに賛成した。
 シュルツは自分のことと古いピアノとを結びつけようとした。
「まだごくいい音が出ます。」と彼はおずおず言った。
 そして彼は鍵《キイ》にさわった――ピアノの中間部の、幾つかの音を、半オクターヴばかりかなり鮮《あざ》やかに。クリストフはその楽器が彼にとっては旧友であることを悟り、やさしく言った――シュルツの眼を考えながら。
「そうです、まだきれいな眼をもっていますね。」
 シュルツの顔は輝いた。彼は自分の古いピアノをやたらにほめ始めた。しかしやがて黙った。クリストフがまたひきだしたからである。歌曲[#「歌曲」に傍点]が相次いでひかれた。クリストフは低い声で歌っていた。シュルツは眼をうるませながら、彼の動作を一々見守っていた。クンツは両手を腹の上に組み合わして、よく聞き取るために眼をつぶっていた。時々クリストフは、晴れやかな顔をして、二人の老人の方をふり返った。二人は恍惚《こうこつ》としていた。彼は無邪気な感激の様子で言っていたが、二人には笑う気も起こらなかった。
「ねえ、いいでしょう……。そしてこれは、どう思います……。それから、これは……これはいちばんりっぱです……。――さあ、ぞっとするようなものを、――ひいてあげよう……。」
 彼が夢幻的な一曲をひき終わった時、掛時計の杜鵑《ほととぎす》が鳴きだした。クリストフは飛び上がって怒鳴り声を立てた。クンツはびっくり我れに返って、驚いた大きな眼玉を動かした。シュルツにも、最初は訳がわからなかった。それから、クリストフが挨拶《あいさつ》をしてる鳥に拳固《げんこ》をさしつけ、この馬鹿者を、この腹声の化《ば》け物を、もって行っちまえと怒鳴ってるのを見た時、彼は生涯初めて、その音が実際たまらないものであることを感じた。そして椅子《いす》をもっていって、その邪魔物を取りはずすために上に登ろうとした。しかし彼は落ちかかった。クンツは彼がまた椅子に登ろうとするのをとめた。彼はザロメを呼んだ。彼女はいつものとおりゆっくりやって来て、クリストフが我慢をしかねて自分で取りはずした掛時計を、腕に渡されるのを見て、呆気《あっけ》に取られた。
「これをどうせよとおっしゃるんですか。」と彼女は尋ねた。
「勝手にするがいい。もってゆけ。もう二度と見せるな。」クリストフと同じく短気にシュルツは言った。
 彼はその厭《いや》な音をどうしてこう長く我慢できたかみずから怪しんでいた。
 ザロメは確かに皆は気が狂ったのだと思った。
 音楽はまた始まった。幾時間かたった。ザロメがやって来て、午餐《ごさん》の支度《したく》ができたことを知らした。シュルツは彼女を黙らした。彼女は十分後にまたやって来、それからふたたび、十分後にまたやって来た。こんどは、ひどく怒っていた。癇癪《かんしゃく》を起こしながら、しかも平気なふうを装《よそお》おうとつとめながら、室のまん中につっ立った。シュルツが絶望的な身振りをしたのにも構わず、らっぱのような声で尋ねた。
 ――皆様は、冷たい食事と熱い食事と、どちらを召し上がりたいのであるか。彼女の方は、どちらでも構わない。お指図を待ってるばかりである。
 シュルツはそのやかましい小言《こごと》に当惑して、彼女をひどくやっつけてやりたかった。しかしクリストフは笑い出した。クンツもその真似《まね》をした。そしてシュルツもついに同じく笑い出した。ザロメはその結果に満足して、あたかも後悔してる人民どもを許してやる女王のような様子で、踵《くびす》をめぐらして出て行った。
「これは元気な女だ!」とクリストフは言いながらピアノから立ち上がった。「彼女の言うところはもっともだ。演奏中にはいって来る聴衆ぐらいたまらないものはない。」
 彼らは食卓についた。非常に嵩《かさ》の多い滋養に富んだ食事であった。シュルツがザロメの自負心をおだてたのだった。彼女は何か口実さえあれば自分の腕前を見せたがっていた。そしてその口実を作り出す機会をのがさなかった。二人の老人は非常に健啖《けんたん》だった。クンツは食卓につくと別人の感があった。太陽のように輝き出すのだった。料理屋の看板にもなり得るほどだった。シュルツもまたそれに劣らず御馳走《ごちそう》には敏感だった。しかし不健康のためにいくらか控え目にしなければならなかった。実を言えば、しばしばそれを忘れることがあった。そしてはひどい報いを受けた。そういう時彼は愚痴をこぼさなかった。病気であるとしても、少なくともその原因を知っていたのである。ところで彼には、クンツと同じく、親から子へ代々伝えきたった料理法があった。ザロメがいつも通人らのために腕をふるった。しかるにこんどは、彼女はただ一つの献立表の中に、自分の得意な料理をすべてぶち込んでしまおうと工夫した。それは、少しも悪化していない真正なあの忘るべからざるライン料理法を、すっかり並べたてたようなものだった。あらゆる草の香《かお》り、濃いソース、実質に富んだポタージュ、模範的なスープ肉、すばらしい鯉《こい》、漬《つ》け菜、鵞鳥《がちょう》、手製の菓子、茴香《ういきょう》とキメンとのはいってるパン、などがあった。クリストフは非常に喜んで、口いっぱい頬張《ほおば》りながら、餓鬼のように食べた。鵞鳥一匹をも食いつくすほどの父や祖父から、たいへんな能力を受け継いでいた。それにまた彼は、パンとチーズとで一週間も暮らすことができるとともに、機会がくれは腹の裂けるほど食べることもできるのであった。シュルツは懇切なまた儀式ばった様子をして、彼をやさしい眼つきで見守り、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を盛んについでやった。クンツは赤い顔色になりながら、彼をいい食い友だちだと思っていた。ザロメの広い顔は、満足げに笑《え》みを浮かべていた。――最初彼女は、クリストフがやって来たのを見た時、当てが違ったような気がした。シュルツが前もってあまり吹聴《ふいちょう》していたものだから、彼女は彼のことを、閣下ともいうべき顔つきをしりっぱな肩書をになった人だろうと、想像していた。そして彼を見ると、驚きの声を発せずにはいられなかった。
「こんな人か。」
 しかし食卓で、クリストフは彼女の贔屓《ひいき》心を得ることができた。彼女はかつて、自分の腕前をそんなに称美してくれる人に会ったことがなかった。彼女は料理場へもどってもゆかないで、敷居のところに立ち止まって、クリストフをながめていた。クリストフは口を休めずに食べながら、盛んな冗談ばかり言っていた。彼女は腰に手をついて、大笑いをしていた。皆愉快だった。彼らの幸福のうちには、ただ一つの黒点しかなかった。ポットペチミットがいないことだった。彼らはしばしばそのことをくり返し言った。
「ああ、彼がいたら! 食べるのは彼に限る。飲むのは彼に限る。歌うのは彼に限る。」
 彼等は賛辞をやめなかった。
「クリストフに彼の歌を聞かせることができたら!……いやたぶんできるだろう。ポットペチミットは夕方帰ってくるかもしれない、遅《おそ》くとも今夜は……。」
「え、今夜僕はもう遠くに行ってますよ。」とクリストフは言った。
 シュルツの輝いていた顔は曇った。
「なに、遠くに!」と彼は震える声で言った。「いや、発《た》ってはいけません。」
「発つんです。」とクリストフは快活に言った。「夕方また汽車に乗るんです。」
 シュルツは落胆した。クリストフを幾晩も泊めるつもりだった。彼は口ごもった。
「いや、いや、そんなことはない!……」
 クンツはくり返した。
「そしてポットペチミットが!」
 クリストフは二人をながめた。彼らの善良な懇切な顔に浮かんでる失望の色に、彼は心を動かされた。彼は言った。
「あなた方はほんとにいい人たちだ。……明日の朝|発《た》つことにしましょう。それでどうです?」
 シュルツは彼の手を取った。
「ああ、よかった!」と彼は言った。「ありがとう、ありがとう!」
 彼は子供のようになっていて、明日はいかにも遠く思われ、考えも及ばないほど遠く思われた。クリストフは今日発ちはしないし、今日じゅうは自分たちのものであり、一晩じゅういっしょにすごし、同じ屋根の下に眠るのだ。それだけのことをシュルツは思っていた。それから先はもうながめたくなかった。
 ふたたび快活になった。シュルツば突然立ち上がり、おこそかな様子をした。この小さな町と自分のささやかな家とを訪れてきてくれて、無上の喜びと名誉とを得さしてくれた賓客にたいし、感動した仰山《ぎょうさん》な祝杯を挙げた。喜ばしい彼の再来、彼の成功、彼の光栄、地上のあらゆる幸福、などを心から希望して、杯を干した。それから、「高尚なる音楽」のためにまた杯を挙げ――さらに、老友のクンツのために――さらに、春のために――そしてまたポ
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