人連中は、いっしょにクリストフの噂《うわさ》をしたことがしばしばあった。そして彼の音楽を見当たる限りことごとくやってみた。ポットペチミットは歌い、シュルツは伴奏し、クンツは聞いた。そして彼らはあとで何時間も興奮した。彼らは音楽をやる時に、幾度言ったことだろう。
「ああ、クラフトがいたら!」
シュルツは、自分のもってる喜びと、これから友人らにもたらさんとする喜びとに、往来で一人笑っていた。夜になりかかっていた。クンツの住居は、町から半時間ばかりの小さな村にあった。空は清らかだった。至って穏やかな四月の夕だった。鶯《うぐいす》が歌っていた。シュルツ老人は心が幸福に浸っていた。胸苦しさも感じないで息をし、足には二十年代のような力を覚えた。暗闇《くらやみ》でつまずく石にも気を留めないで、軽快に歩いていった。馬車が来ると、元気に路傍へ身をよけて、御者とうれしげな挨拶《あいさつ》をかわした。道の土手に上っている老人の姿を、角燈の光が通りしなに照らし出す時、御者は驚いて彼をながめていった。
村のとっつきの、小さな庭の中のクンツの家に着いた時は、もうすっかり夜になっていた。彼は戸を激しくたたいて、大声で呼びたてた。窓が一つ開《あ》いて、びっくりしたクンツの顔が現われた。クンツは暗闇の中を透し見て、尋ねた。
「だれですか。なんの用ですか。」
シュルツは息を切らし※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》として、叫んでいた。
「クラフトが……クラフトが明日来るよ……。」
クンツには何にもわからなかった。しかし彼はその声を覚えていた。
「シュルツか!……どうしたんだ。今時分に。何か起こったのか。」
シュルツはくり返した。
「明日来るんだよ、明日の朝!……」
「何が?」とクンツはまだ呆気《あっけ》に取られていて尋ねた。
「クラフトがさ!」とシュルツは叫んだ。
クンツはちょっとその言葉の意味を考えていた。それから、響き渡る感動の言葉を発した。了解したのだった。
「降りて行くよ。」と彼は叫んだ。
窓はまた閉《し》められた。彼は手にランプをもって、階段の入口に現われ、庭に降りてきた。背の低い太鼓腹の老人で、灰色の大きな頭と赤い髯《ひげ》とをもち、顔や手には赤痣《あかあざ》があった。彼は瀬戸のパイプをふかしながら、小股《こまた》でやって来た。お心よしで多少ぼんやりしてるこの男は、生涯《しょうがい》かつて大して気をもんだことがなかった。けれども、シュルツのもたらした報知には彼も平然たることを得なかった。彼はその短い腕とランプとを動かしながら尋ねた。
「なに、ほんとうかい? 来るのかい?」
「明日の朝だ。」とシュルツは電報をうち振りながら揚々とくり返した。
二人の老友は青葉|棚《だな》の下のベンチへ行ってすわった。シュルツはランプを取った。クンツはていねいに電報を開き、半ば口の中でゆっくり読んだ。シュルツは彼の肩越しに声高く読み返した。クンツはなお、電文のまわりの指示欄や、発送された時間や、到着した時間や、語数などをながめた。それからその貴い紙片を、快げに笑ってるシュルツに返し、うなずきながら彼をながめて、くり返した。
「ああよろしい……よろしい!……」
そしてちょっと考え、煙草《たばこ》を一口大きく吸い込んで吐き出した後、シュルツの膝《ひざ》に手を置いて言った。
「ポットペチミットに知らせなけりゃいけない。」
「己《おれ》が行こう。」とシュルツは言った。
「己もいっしょに行こう。」とクンツは言った。
彼はランプを置きに家へはいり、またすぐに出て来た。二人の老人はたがいに腕を組み合わして出かけた。ポットペチミットは反対の村はずれに住んでいた。シュルツとクンツとは、報知を心の中でくり返し考えながら、上《うわ》の空の言葉をかわしていた。突然クンツは立ち止まって、杖《つえ》で地面をたたいた。
「やあしまった!」と彼は言った、「家にはいない……。」
ポットペチミットがその午後、ある手術のために隣り町へ出かけて、そこで泊まり、なお一両日滞在するはずであることを、彼は思い出したのだった。シュルツは途方にくれた。クンツもやはり弱った。彼らはポットペチミットを自慢にしていた。彼の手腕を看板にしたかった。二人はどうしていいかわからないで、道のまん中に立ち止まった。
「どうしよう、どうしよう?」とクンツは尋ねた。
「ぜひともクラフトにポットペチミットの声を聞かせなけりゃいけない。」とシュルツは言った。
彼は考えてから言った。
「電報をうとう。」
二人は電信局へ行って、何事だか少しもわからないような、感動した長い電文をいっしょにつづった。
それからもどっていった。シュルツは時間をくっていた。
「一番列車に乗ったら、明日の朝は帰って来れるだろう。」
しかしクンツは、もう間に合わないと注意し、電報は明日でなければ彼の手に渡るはずがないと言った。シュルツはうなずいた。そして二人はたがいにくり返した。
「弱ったな!」
二人はクンツの門口で別れた。シュルツにたいするクンツの友情はごく深くはあったけれども、村の外までシュルツを送ってゆき、たといわずかな道程《みちのり》でも、夜中にただ一人でまたもどって来るの軽挙を冒すほどには、進んでいなかったのである。翌日、クンツはシュルツの家で昼餐《ちゅうさん》をともにする約束だった。シュルツは心配そうに空をながめた。
「明日天気でさえあれば!」
そして彼は、クンツの言葉にいくらか胸の重みが取れた。巧みな日和見《ひよりみ》だと言われてるクンツは、厳《おごそ》かに空を見調べて――(彼もまたシュルツと同じく、自分らの小さな土地の晴れ晴れとした景色《けしき》をクリストフに見せたかったのである)――そして言った。
「明日はいい天気だ。」
シュルツはまた町へもどっていった。町へ達するまでには、轍《わだち》の中や、路傍に積んである石などに、一度ならずつまずいた。家へ帰る前に菓子屋へ寄って、町の名物たるある蒸し菓子を注文した。それから家へもどった。しかし家へはいりかけると、ふいに後戻《あともど》りして、停車場へ行き、列車到着の正確な時間を調べた。終わりに家へ帰り、ザロメを呼び、翌日の昼餐について長い間彼女と論じ合った。そしてようやく、疲れはてて床についた。しかし彼は降誕祭《クリスマス》前夜の子供のように興奮していて、一睡もできないで、終夜|蒲団《ふとん》の中で寝返りをしていた。午前一時ごろ、昼餐にはむしろ鯉《こい》の蒸し焼をこしらえるようザロメに言うために、起き上がろうと考えた。彼女はその料理が非常に上手《じょうず》だったのである。しかし彼は彼女に言わなかった。もちろんそんなことをしない方がよかった。それでも彼はやはり起き上がって、クリストフにあてた室の中の種々な物を整頓《せいとん》した。ザロメへ聞こえないようにと非常に用心した。しかられやすまいかと恐れていたのである。そして彼は、クリストフが八時前に着くはずはなかったのに、汽車の時間に遅れやすまいかと気づかった。早朝から支度《したく》をした。彼は第一に空をながめた。クンツの見当は当たっていた。すこぶる上天気だった。寒さと急な梯子《はしご》段とを恐れてもう長くはいったこともない窖《あなぐら》へ、爪先立《つまさきだ》って降りていった。いちばんよい葡萄《ぶどう》酒の瓶《びん》を選んだ。上がって来る時に頭をひどく天井にぶっつけた。葡萄酒瓶の籠《かご》をかかえて梯子段を上りきった時には、息が切れてしまうような思いをした。それから木鋏《きばさみ》をもって庭へ行った。いちばん美しい薔薇《ばら》や初咲きの枝を、容赦なく切り取った。次に自分の室へ上がり、あわただしく髯《ひげ》を剃り、一、二か所|怪我《けが》をし、ていねいに服装を整え、そして停車場へ出かけた。七時だった。ザロメがいくら言っても、彼は牛乳一滴も飲まなかった。クリストフも朝食を取らないでやって来るに違いないから、停車場から帰っていっしょに食べるのだと、彼は言っていた。
彼は四十五分前に停車場へ着いた。そしてクリストフを待ちわびながら、ついに見はずしてしまった。我慢して出口で待ってることができないで、プラットホームへ出て行き、乗降客の渦《うず》の中にまごついた。電報の明確な指示があるにもかかわらず、もしかしたら、クリストフは他の列車で来るかもしれないと彼は想像した。それにまた、クリストフが四等車から降りて来ようとは、思いもつかなかった。彼はなお三十分以上も停車場に残って、クリストフを待ってみた。クリストフはもうだいぶ前に到着して、まっすぐに彼の家を訪れて行ったのだった。さらに間《ま》の悪いことには、ザロメが買い物に出かけたところだった。クリストフが行くと門が閉《し》まっていた。ザロメは隣りの人に、だれかが来たらすぐに帰ると言ってくれるようにとだけ頼んでおいたので、隣人はそれだけを伝えて何にも言い添えなかった。クリストフは、ザロメに会いに来たのでもなければ、ザロメとは何者であるかをも知らなかったので、冗談にも程があると思った。大学音楽会長のシュルツ氏はこの地にいないのかと、彼は尋ねた。いるという答えだったが、どこへ行ってるのかわからなかった。彼は怒って立ち去った。
シュルツ老人は、がっかりした顔つきでもどってき、同じくもどったばかりのザロメから、事情を聞いた時には、途方にくれてしまった。泣き出さんばかりになった。自分の不在中に出かけて、クリストフを待たしておくだけの取り計らいさえしないでいる、召使の馬鹿さ加減を憤った。ザロメも同じ怒った調子で、待ってる人を見のがすほど彼が馬鹿だろうとは、思いつかなかったと答え返した。しかし老人は、彼女相手にぐずぐず言い合いはしなかった。一刻も猶予しないで、ふたたび階段を駆け降り、隣りの人たちが教えてくれる漠然《ばくぜん》とした方向へ、クリストフを捜しに出かけた。
クリストフは、だれもいないし一言の言い訳も受けないのを、憤慨していた。次の汽車の時間までどうしていいかわからないので、美しく見える野原を歩き回った。なだらかな丘に囲まれてる、小さな静かな安らかな町だった。人家のまわりの庭、花の咲いた桜樹《おうじゅ》、緑の芝地、美しい樹影《こかげ》、擬古式の廃墟《はいきょ》、大理石の円柱台の上、緑の間には、昔の女王らの白い胸像、そのやさしいかわいい顔つき。町の周囲は皆、牧場と丘陵だった。花咲いた灌木《かんぼく》の中には、鶫《つぐみ》のうれしげな鳴き声が、快活な明朗なフルートの小合奏をしていた。クリストフの不機嫌《ふきげん》は間もなく消えた。彼はペーテル・シュルツを忘れてしまった。
シュルツ老人は、通行人らに尋ねながらむなしく町中を駆け回った。町の上にそびえてる、丘の上の古城にまで上がった。悲しい心でまた降りてきた。その時、ごく遠くまできく彼の鋭い眼は、牧場の叢《くさむら》の影に横たわってる男の姿を、向こうに見出した。彼はクリストフを見知らなかった。向こうの男が彼であるかどうか、知る術《すべ》はなかった。男はこちらに背中を向け、頭を半ば草の中に埋めていた。シュルツは牧場の周囲の道をうろつきながら、胸を躍《おど》らせていた。
「彼だ……いや彼じゃない……。」
呼びかけることもなしかねた。ふといいことを思いついた。彼はクリストフの歌曲[#「歌曲」に傍点]の最初の句を歌いだした。
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起てよ、振い起てよかし……
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クリストフは水から出た魚のように飛び上がって、その続きを大声に歌った。うれしげにふり向いた。真赤《まっか》な顔をして、髪には草がついていた。二人はたがいに名前を呼び合って、両方から駆け寄った。シュルツは道の溝《みぞ》をまたぎ越し、クリストフは柵《さく》を飛び越した。二人は心をこめて握手をし、大声に話したり笑ったりしながら、いっしょに家へ帰ってきた。老人は自分の失策を話した。クリストフは一瞬間前では、新たにシュルツに会いに行かないで、そ
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