です。――あなたにも、だれにも。もう今じゃ、だれもいりません、何もいりません。自分のうちに何もかももってるんです……。」
「そうら、」と彼女は言った、「こんどはまた別な狂気|沙汰《ざた》になってきた!……だがそうならなければならないんなら、まだこんどの方がよい。」

 おのが思想の湖上に漂う心楽しい幸福!……舟底に横たわり、身体は日の光に浴し、顔は水の面を走るさわやかな微風になぶられて、彼は宙に浮かびながらうとうととしている。寝そべった身体の下には、揺らめく小舟の下には、深い水が感ぜられる。手はひとりでに水に浸される。彼は起き上がる。子供のおりのように、舟縁《ふなべり》に頤《あご》をもたして、過ぎてゆく水をながめる。稲妻のように飛び去ってゆく、不思議な生物の輝きが見える……また他《ほか》のが、次にまた他のが……。いつもそれぞれ異なった生物である。彼は自分のうちに展開してゆく奇怪な光景に笑っている。自分の思想に笑っている。思想をどこにも固定させる必要はない。選ぶこと、それら数限りない夢想のうちになんで選択の要があろう? まだ時間は十分ある。……あとのことだ!……好きな時に網を投じさえすれ
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