意した。彼は自分の言うことを彼女が聞いていないのを知っていた。しかしそれを気に止めなかった。彼は自分自身にたいして語ってるのであった。
 二人は微笑《ほほえ》みながら顔を見合っていた、彼は語り、彼女はよく耳も傾けずに。彼女は息子《むすこ》を自慢にしていたが、その芸術上の抱負にはたいして重きを置いていなかった。彼女は考えていた、「この人は幸福なのだ、それがいちばん肝心なことだ。」――彼は自分の話にみずから酔いながら、母のなつかしい顔を、頸《くび》には黒い襟巻《えりまき》を緊《ひし》とまとい、白い髪をし、若々しい眼で自分をやさしく見守《みまも》り、寛容にゆったりと落ち着いてる母の、その顔をながめていた。彼女の心のうちの考えがすっかり読み取られた。彼は冗談に言ってみた。
「お母さんにとってはどうでもいいことなんでしょうね、僕の話してることなんかは。」
 彼女は軽く反対をとなえた。
「いいえ、いいえ!」
 彼は彼女を抱擁した。
「なにそうですよ、そうですよ! まあ言い訳なんかしなくてもいいんですよ。お母さんの方が尤《もっと》もです。ただ、僕を愛してください。僕は人に理解してもらわなくてもいいん
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