ろうと思っていた。もう幾年もいっしょに暮らしてきたし、ずっと同じような状態でゆくだろうと思わざるを得なかった。かくして彼女は幸福だった。どうして彼もまた幸福でないことがあろうぞ。彼にこの町の気楽な中流階級の娘を娶《めあ》わせ、日曜日には彼が教会堂のオルガンを弾《ひ》くのを聞き、そしていつまでも自分のそばにとどまってること、それが彼女の夢想の全範囲だった。彼女は息子をいつも十一、二歳くらいに見ていた。それ以上になってほしくなかった。そして彼女はこの狭い天地に息づまってる不幸な一個の男子を、別に悪い心ではなしに苦しめていた。
 とは言え、大望のなんたるかを理解し得ないで、家庭の愛情とささやかな義務の遂行とに、人生の全幸福を置いている母親の、かかる無意識的な哲理のうちには、多くの真――一つの精神的偉大さ――が存在していた。それは愛することを欲する魂であり、愛することのみを欲する魂であった。愛を捨てるよりもむしろ、生活、理性、論理、全世界、すべてを捨てる方が好ましかったのだ! そしてこの愛は、無際限で懇願的で要求深いものだった。それはすべてを与えるものであり、またすべてを得んと欲するものだった
前へ 次へ
全527ページ中460ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング