二人はもう何にも言うことがなかった。しかしシュルツの眼は話しつづけていた。それは汽車が出るまでクリストフの顔から離れなかった。
 汽車は線路の曲がり角《かど》で見えなくなった。シュルツはまた一人きりになった。彼は泥濘《ねかるみ》の並木道を通って帰った。足を引きずっていた。疲れと寒さと雨の日の悲しさとをにわかに感じた。家までもどるのに、そして階段を上るのに、たいへん骨が折れた。自分の室にはいるや否や、息切れと咳《せき》との発作に襲われた。ザロメが介抱にやって来た。無意識にうめきながらも、その最中に彼はくり返していた。
「実に仕合わせだった!……今まで起こらなかったのは実に仕合わせだった!……」
 彼はひどく悪いような気がした。床についた。ザロメは医者を呼びに行った。寝床の中で彼の身体は、布片のようにぐったり放《ほう》り出されていた。身動きもできないほどだった。ただその胸だけが、鞴《ふいご》のようにあえいでいた。頭は重苦しくて熱ばんでいた。彼は前日の各瞬間をそれからそれへと思い生かして、その一日を送った。思い生かしては苦しい気持になり、また次には、あれほどの幸福のあとで愚痴をこぼすのをみず
前へ 次へ
全527ページ中423ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング