な仕事をしでかすのにも非常な困難を感じた。最もいけないことには、着手したばかりでもう厭《いや》になった。幻想は通り過ぎてゆき、彼自身も通り過ぎていった。一つのことをやってると、他のことをやれないのが残念だった。りっぱな主題を一つ選み取っただけで、もうその主題に興味がなくなるように思われた。かくてそのあらゆる財宝も、彼には役にたたなかった。彼の思想は皆、彼が手を触れさえしなければ生き生きとしていた。首尾よくとらえると、もうすでに死んでいた。それはタンタルスの苦痛に似ていた。届く所に果実がなっているけれど、それを手に取ると石になった。唇《くちびる》の近くに清水があるけれど、身をかがめると遠のいてしまった。
 彼は渇《かつ》を癒《いや》さんがために、すでに手に入れた泉で、自分の旧作で、喉《のど》をうるおそうとした。……厭な飲料! 彼はそれを一口含むや、ののしりながらすぐに吐き出した。何事ぞ、この生|温《あたた》かい水が、この空粗な音楽が、自分の音楽であったのか?――彼は自分の作曲をひとわたり読み返してみた。そして駭然《がいぜん》とした。さらに腑《ふ》に落ちなかった。どうしてそんなものを書く気
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