ましく意中を吐露せんとする、態《わざ》とらしいつまらない性癖であった。言うべきこともないのに常に口をきいていた。その饒舌はいつまでもやまないのか?――これ、沼の蛙《かえる》ども黙らないか!
 クリストフがさらにまざまざと虚偽を感じたのは、ことに恋愛の表現中にであった。なぜなら、彼はこの問題ではいっそうよくそれを事実に比較することができたから。涙っぽい几帳面《きちょうめん》な恋歌の因襲は、男の欲望にも女の心にも、なんら一致してるものがなかった。けれどもそれを書いた人々は、少なくとも一生に一度は恋をしたことがあるに違いなかった。しからば彼らはそういうふうに恋したのであったろうか? 否、否。彼らは嘘《うそ》をつき、例の通り嘘をつき、自分自身に向かっても嘘をついたのだ。彼らは自分を理想化せんと欲したのである。理想化するというのは、人生を正視することを恐れ、事物をあるがままに見るを得ないことである。――いたる所に、同じ臆病《おくびょう》さ、男らしい率直さの同じような欠乏。いたる所に、愛国心の中にも、飲酒の中にも、宗教の中にも、冷やかな同じ心酔、浮華な芝居じみた同じ厳粛さ。飲酒の歌は皆、酒や杯にたいする擬人法であった、「汝[#「汝」に傍点]、尚《とうと》き杯よ[#「杯よ」に傍点]……」と。信仰は、不意の波涛《はとう》のように魂から迸《ほとばし》り出るべきものでありながら、一つのこしらえ物となり、一つの通用品となっていた。愛国の歌は、程よく鳴いてる従順な羊の群れのためにこしらえられたものであった……。――さあ怒号してみないか?……なんだ、なお嘘を言いつづけるのか……理想化[#「理想化」に傍点]しつづけるのか――陶酔においても、殺害においても、狂愚においてまでも!……
 クリストフはついに理想主義を憎むにいたった。そういう虚偽よりも磊落《らいらく》な粗暴の方がまだ好ましかった。――根本においては、彼はだれよりも理想主義者であって、むしろ好ましいと思ったそれら粗暴な現実主義者こそ、彼の最も忌むべき敵であるはずだった。
 彼は自分の熱情に眼を眩《くら》まされていた。霧のために、貧血症に罹《かか》ってる虚偽のために、「太陽のない幽鬼的観念」のために、凍らされたような気がしていた。一身の力をしぼって太陽を翹望《ぎょうぼう》していた。周囲の偽善にたいする、あるいは彼が偽善と名づけてるものにたいする、年少気鋭な軽蔑《けいべつ》心のあまりに、民族の実際的大智が眼に映じなかった。この民族は、おのれの野蛮なる本能を統御せんがために、もしくはそれを利用せんがために、次第にその壮大な理想主義をうち立てたのであった。民族の魂を変形し、それに新しい性質を帯びさせるものは、専断な理性でもなく、道徳および宗教の規範でもなく、立法家および為政家でも、牧師および哲学者でもない。それは幾世紀もの不幸|艱難《かんなん》の所産であって、生きんと欲する民衆はその間に生のために鍛えられる。

 その間もクリストフは作曲していた。そして彼の作は、彼が他人に非難するその欠点から免れてはいなかった。なぜならば、彼にあっては創作はやむにやまれぬ欲求であって、その欲求は理知が提出する規則に服従しはしなかった。人は理性によって創造するのではない。必然の力に駆られて創造するのである。――次に、多くの感情に固有の虚偽や誇張を認めるだけでは、それらにふたたび陥るのを免れるものではない。長い困難な努力が必要である。時代相伝の怠惰な習慣の重い遺産をもちながら、現代の社会において、まったく真実たらんとすることは最も困難である。多くは沈黙を守《まも》るが最上の策であるにもかかわらず、おのれの心をたえずしゃべらしておく不謹慎な病癖をもってる人々や民衆にとっては、真実たることはことに容易でない。
 この点については、クリストフの心はきわめてドイツ的であった。彼はまだ沈黙の徳を知っていなかった。そのうえ、それは彼の年齢にもふさわしくなかった。彼はしゃべりたい欲求を、しかも騒々しくしゃべりたい欲求を、父から受け継いでいた。彼はそれを意識して、それと争っていた。しかしこの争いに彼の力の一部は痲痺《まひ》していた。――また彼は、祖父から受け継いだ遺伝と争っていた。それもまた同じく厭《いや》な遺伝で、自己を正確に表現することのはなはだしい困難さであった。――彼は技能の児《こ》であった。技能の危険な魅力を感じていた。――肉体的快楽、巧妙さや軽快さや筋肉の活動の快楽、おのれの一身をもって数千の聴衆を征服し眩惑《げんわく》し支配するの快楽。それは年若き者にあっては、きわめて宥恕《ゆうじょ》すべきほとんど罪なき快楽ではあるが、しかし芸術と魂とにとっては、致命的なものである。――クリストフはその快楽を知っていた。それを血の中にもってい
前へ 次へ
全132ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング