た。それを軽蔑《けいべつ》してはいたが、やはりそれに打ち負けていた。
かくて、民族の本能と天分の本能からたがいに引っ張られ、身内に食い込まれて振り払うことのできない寄生的な過去の重荷に圧せられて、彼はつまずきながら進んでいった。そしてみずから排斥していたものに思いのほか接近していた。当時の彼の作品はことごとく、真実と誇張との、明敏な活力とのぼせ上がった愚蒙《ぐもう》との、混合であった。彼の性格が、おのれの運動を拘束する故人の性格の外被をつき破ることができるのは、ごく時々にしかすぎなかった。
彼はただ一人であった。彼を助けて泥濘《でいねい》から引き出してくれる案内者はいなかった。彼は泥濘から外に出たと思ってる時に、ますますそれに落ち込んでいた。不運な詩作に時間と力とを濫費しながら、摸索しつつ進んでいった。いかなる経験をもなめつくした。そしてかかる創作的|煩悶《はんもん》の混乱中にあって、彼は自分が創作するすべてのもののうちで、いずれが最も価値あるかを知らなかった。無法な計画の中で、哲学的主張と奇怪な推測とをもった交響楽詩の中で、途方にくれた。しかしそれに長くかかり合うには、彼の精神はあまりに誠実だった。そしてその一部分をも草案しないうちに、嫌悪《けんお》の情をもって投げ捨てた。あるいはまた、最も取り扱いがたい詩の作品を、序楽の中に訳出しようと考えた。すると自分の領分でない世界の中に迷い込んだ。また、みずから演劇の筋を立ててみることもあったが――(彼は何物にたいしても狐疑《こぎ》しなかったのである)――それは馬鹿げきったものだった。またゲーテやクライストやヘッベルやシェイクスピヤなどの大作を攻撃する時には、まったくそれを曲解していた。知力が欠けてるのではなかったが、批評的精神が欠けていた。彼はまだ他人を理解し得なかった。あまりに自分自身に心を奪われていた。彼がいたるところに見出したのは、自分の率直な誇張的な魂をそなえてる自分自身であった。
それらのまったく生きる術《すべ》のない怪しい物のほかに、彼は多くの小さな作品を書いていた。折りにふれての情緒を直接に表現したもの――すべてのうちで最も永存すべきもので、音楽的感想、すなわち歌曲《リード》であった。この場合にも他と同じく、彼は世流の習慣にたいして熱烈な反動をなしていた。すでに音楽に取り扱われてる有名な詩を取り上げて、シューマンやシューベルトなどと異なったしかもより真実な取り扱い方を、傲慢《ごうまん》にも試みようとしていた。あるいは、ゲーテの詩的な人物、たとえばウィルヘルム・マイステル[#「ウィルヘルム・マイステル」に傍点]中の竪琴《たてごと》手ミニョンなどに、その簡明にして混濁せる個性を与えようとつとめた。あるいは、作者の力弱さと聴衆の無趣味とが暗々裏に一致して、いつも甘っぽい感傷で包み込んでいる、ある種の恋歌にぶつかっていった。そしてその衣を剥ぎ取り、粗野な肉感的な辛辣《しんらつ》さを吹き込んだ。一言にしていえば、熱情や人物を、それ自身のために生きさせようと考え、日曜日ごとに麦酒亭《ビエルガルテン》に集まって安価な感動を求めているドイツ人らの玩具《がんぐ》になるために、それらを生きさせようとはしなかった。
しかし彼は普通、詩人らをあまりに文学的だと思っていた。そして最も単純な原文、かつて教訓本の中で読んだことのある、古い歌曲《リード》の原文を、古い霊歌の原文を、好んで捜し求めた。けれども彼はその賛美歌的性質を存続させまいと用心した。大胆なほど通俗な生き生きとした方法で取り扱った。その他の彼が取り上げたものは、種々の俚諺《りげん》、時としては、通りがかりに耳にした言葉、市井《しせい》の会話の断片、子供の考え――たいていは拙《つたな》い散文的な文句ではあるが、しかしまったく純な感情がその中に透かし見られるものだった。そういうものになると、彼は楽々とやってのけた。そして自分では気づかないでいる一種の深みに到達していた。
彼の作品にはよいものも悪いものもあり、たいていはよいものより悪いものの方が多かったが、その全体について言えば、生命があふれていた。それでもすべて新しいものではなかった、新しい所ではなかった。クリストフは誠実のためにかえって平凡になることが多かった。すでに用いられてる形式をくり返すことがよくあった。なぜなら、それは彼の思想を正確に現わしていたし、また彼はそういう感じ方をしていて、異なった感じ方をしていなかったからである。彼は少しも独創的たらんことを求めなかった。独創的たらんと齷齪《あくせく》するのは凡庸《ぼんよう》なるがゆえである、と彼には思えた。彼は自分が実感してることを言おうと努めて、それがすでに前に言われていようといまいと、少しも気にしなかった。しかもそれ
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