あれほど峻厳だったのは、自分自身にたいして峻厳だったからである。彼以上に彼らを愛したものがあったろうか? シューベルトの温良さ、ハイドンの無邪気さ、モーツァルトの情愛、ベートーヴェンの勇壮偉大な心、それを彼以上によく感じたものがあったろうか? ウェーベルの森の戦《そよ》ぎの中に、または、北方の灰色の空に、ドイツ平原のはるかに、石の巨体と見通し尖頂《せんちょう》の大きな塔をそばだてている、ヨハン・セバスチアンの大|伽藍《がらん》の大きな影の中に、彼以上に敬虔《けいけん》な情をもって身を潜めた者があったろうか?――しかしながら彼はまた、彼らの虚偽を苦しんでいた。それを忘れることができなかった。そして彼らの虚偽を民族に帰し、彼らの偉大さを彼ら自身に帰したのであった。彼は間違っていた。偉大な点も弱点も、等しく民族に属するものである。この民族の力強い混沌《こんとん》たる思想は、音楽や詩の大河となって逆巻《さかま》き、全ヨーロッパはその河水を飲みに来る。――実際彼は、今彼をしてかくも峻烈《しゅんれつ》に民衆を非難せしめている率直な純真さを、他のいかなる民衆のうちに見出し得たであろうか?
彼はそれらのことに少しも気づかなかった。駄々《だだ》っ児《こ》の恩知らずな心をもって、母体から受けた武器を母体に差し向けていた。あとになって、あとになってこそ、彼は初めて感ずるに違いない、母体に負うところがいかに多いかを、自分にとってその母体がいかに貴いものであるかを……。
しかし彼は今、おのれの幼年時代の偶像にたいする盲目的な反動の時期にあった。彼はそれらの偶像を憎み、自分が夢中になって信仰したことを偶像に向かって恨んでいた。――そして彼がそうあるのはいいことであった。生涯《しょうがい》のある年代においては、あえて不正であらなければいけない。注入されたあらゆる賛美とあらゆる尊敬とを塗抹《とまつ》し、すべてを――虚偽をも真実をも、否定し、真実だと自分で認めないすべてのものを、あえて否定しなければいけない。年若い者は、その教育によって、周囲に見聞きする事柄によって、人生の主要な真実に混淆《こんこう》している虚偽と痴愚とのきわめて多くの量を、おのれのうちに吸い込むがゆえに、健全なる人たらんと欲する青年の第一の務めは、すべてを吐き出すことにある。
クリストフはこの強健な嫌悪《けんお》を事とする危機を通っていた。自分の一身を閉塞《へいそく》してる不消化物を本能的に排出していた。
まず第一に、湿った黴《かび》臭い地下室からのように、ドイツ魂から滴《したた》っている、胸悪くなる多感性があった。光よ、光よ! 荒い乾《かわ》いた空気よ! 沼沢の毒気を、ゲルマン魂《ゲミュート》が無尽蔵にみなぎっている、雨滴のように数多い歌曲《リード》や小歌曲の白けた臭気を、一掃してくれないか。それらのものは無数にあった。慾望[#「慾望」に傍点]、郷愁[#「郷愁」に傍点]、跳躍[#「跳躍」に傍点]、願い[#「願い」に傍点]、いかなれば[#「いかなれば」に傍点]? 月に[#「月に」に傍点]、星に[#「星に」に傍点]、鶯に[#「鶯に」に傍点]、春に[#「春に」に傍点]、太陽の光に[#「太陽の光に」に傍点]、春の歌[#「春の歌」に傍点]、春の快楽[#「春の快楽」に傍点]、春の会釈[#「春の会釈」に傍点]、春の旅[#「春の旅」に傍点]、春の夜[#「春の夜」に傍点]、春の使い[#「春の使い」に傍点]、愛の声[#「愛の声」に傍点]、愛の言葉[#「愛の言葉」に傍点]、愛の悲しみ[#「愛の悲しみ」に傍点]、愛の精[#「愛の精」に傍点]、愛の豊満[#「愛の豊満」に傍点]、花の歌[#「花の歌」に傍点]、花の文[#「花の文」に傍点]、花の会釈[#「花の会釈」に傍点]、心の痛み[#「心の痛み」に傍点]、吾が心重し[#「吾が心重し」に傍点]、吾が心乱る[#「吾が心乱る」に傍点]、吾が眼曇る[#「吾が眼曇る」に傍点]、または、小|薔薇《ばら》や小川や雉鳩《きじばと》や燕《つばめ》などとの、仇気《あどけ》ない馬鹿げた対話、または、次のようなおかしな問い――野薔薇に刺がなかりせば[#「野薔薇に刺がなかりせば」に傍点]、――老いたる良人と燕は巣を作りしならば[#「老いたる良人と燕は巣を作りしならば」に傍点]、あるいは、近き頃燕は婚約したりしならば[#「近き頃燕は婚約したりしならば」に傍点]。――すべてそれらの、空粗な愛情、空粗な情緒、空粗な憂愁、空粗な詩、などの汎濫《はんらん》……。いかに多くの美しいものが俗化され、いかに多くの気高い感情が、あらゆる場合にゆえもなく使い古されてることだろう! 最も悪いのは、すべてそれらのものが無駄《むだ》になってることだった。それは公衆におのれの心を開き示さんとする習癖であり、やか
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