ふうにくり返されこね回され配合されてる、簡単な律動《リズム》が、装飾的意匠があった。それらの対照的な冗複な構造――奏鳴曲《ソナタ》や交響曲《シンフォニー》――は、広大精巧な設計や端整さなどの美に当時あまり敏感でなかったクリストフを、憤激させるのであった。音楽家の仕事というよりむしろ左官屋の仕事のように彼には思われた。
彼はまた浪漫派《ロマンチック》作家らにたいしても、同じく峻厳《しゅんげん》だった。不思議なことには、最も自由であり、最も自発的であり、最も建築的でないと、自称していた音楽家ほど――たとえばシューマンのように、無数の小曲のうちに、自分の全生命を一滴ずつ注ぎ込んだ人々ほど、彼をいらだたせるものはなかった。みずから脱却しようと誓った自分の少壮な魂やあらゆる稚気を、彼らのうちにもやはり見出しただけに、なおさら憤激した。もとより、誠実なシューマンは虚構をもって難ぜられるはずはなかった。彼が言ってることはほとんどすべて、ほんとうに感じたことばかりだった。しかし、ちょうどシューマンの例によってクリストフが理解するにいたったことは、ドイツ芸術の最も悪い虚構は、その芸術家らが少しも実感しない感情を表現しようと欲したから起こったというより、むしろ彼らが実感する感情――実感する嘘の感情[#「嘘の感情」に傍点]――を表現しようと欲したから起こったということであった。音楽は魂の仮借《かしゃく》なき鏡である。ドイツの音楽家にして、率直で信実であればあるほど、ますます彼が示すところのものは、ドイツ魂の弱点であって、不安定な根底、柔惰な多感性、率直さの欠乏、多少|狡猾《こうかつ》な理想主義、自己を見、あえて自己を正視することの不可能、などであった。この誤れる理想主義は、最も偉大な人々の――たとえばワグナーの、急所であった。その作品を読み返しながら、クリストフは歯ぎしりをした。ローエングリン[#「ローエングリン」に傍点]は、罵倒《ばとう》すべき虚偽の作であるように思われた。その下卑《げび》た騎士道、偽善的なもったい振り、好んでおのれを賛美しおのれを愛する我利冷酷な徳操の化身とも言うべき、恐怖も知らないが人情も知らないその英雄、それを彼は憎みきらった。自分の面影を崇拝し、その神聖さにたいしては他人を犠牲にしても顧みない、自惚《うぬぼれ》の強い几帳面《きちょうめん》な堅苦しい、かかるドイツ的偽善の人物を、彼はよく知りすぎてい、現実に見たことがあった。さまよえるオランダ人[#「さまよえるオランダ人」に傍点]は、その重々しい感傷性と陰鬱《いんうつ》な倦怠《けんたい》とで彼の心を圧倒した。四部曲[#「四部曲」に傍点]の野蛮な頽廃《たいはい》的人物は、恋愛において堪《たま》らないほど空粗だった。妹を奪ってゆくジーグムントは、客間式の華想曲《ロマンス》をテナーで歌っていた。神々の黄昏[#「神々の黄昏」に傍点]中のジーグフリート、ブリュンヒルデは、ドイツのりっぱな夫妻として、たがいの眼に、とくに公衆の眼に、浮華|饒舌《じょうぜつ》な夫婦の情熱を盛んに見せつけていた。それらの作品中には、あらゆる種類の虚偽が集まっていた、嘘《うそ》の理想主義、嘘のキリスト教、嘘のゴチック主義、嘘の伝説味、嘘の神性味、嘘の人間味などが。あらゆる因襲を覆《くつがえ》すものとせられてるその劇ぐらい、巨大な因襲を振りかざしてるものはなかった。眼も精神も心も、片時なりとそれに欺かれるはずはなかった。進んで欺かれようと思わないかぎりは、欺かれるはずはなかった。――ところが人々の眼や精神や心は、欺かれることを望んでいた。ドイツは、その老耄《ろうもう》なまた幼稚な芸術を、解き放された畜生ともったいぶった気取りやの小娘との芸術を、歓《よろこ》び楽しんでいた。
そしてクリストフ自身も、いかんともできなかった。彼はそういう音楽を聞くや否や、他人と同じく、他人よりももっとはなはだしく、音の急湍《きゅうたん》とそれを繰り出す作者の悪魔的意志とにとらえられた。彼は笑った、うち震えた、頬《ほお》を熱《ほて》らした。騎馬の軍隊が自分のうちを通るのを感じた。そういう暴風をおのれのうちにもってる人々には、すべてが許されてると考えた。もはやうち震えながらしか繙《ひもと》くことのできない神聖な作品のうちに、愛していたものの純潔さを何物にも曇らされることなく、昔と同じ激しい感動をふたたび見出す時、いかに彼は喜びの叫びをたてたことだろう! それは彼が難破から救い上げた光栄ある残留品だった。なんたる仕合わせぞ! 自分自身の一部を救い出したような気持だった。そして実際、それは彼自身ではなかったであろうか? 彼が憤激して非難したそれらドイツの偉人は、彼の血、彼の肉、彼の最も貴い存在、ではなかったであろうか? 彼が彼らにたいして
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