かれていたことに気づいたようなものだった。それを彼は泣いた。もう夜も眠れなかった。たえず苦しんだ。みずから自分をとがめた。もう自分には判断ができなくなったのか? 自分はまったく馬鹿になってしまったのか? 否々、晴れやかな日の麗わしさは、いつもよりずっとよく眼にはいった。人生のみごとな豊富さは、いつもよりずっとよく感ぜられた。彼の心は少しも彼を欺いてはいなかった。
なお長らく彼は、自分にとって最もりっぱな人々、最も純粋な人々、聖者中の聖者とも言うべき人々、そういう楽匠にはあえて手を触れなかった。彼らにたいしていだいてる信仰が傷つけられはすまいかと恐れた。しかしながら、最後まで突進して、たとい苦しみを受けようとも、事物の真相を見きわめんと欲する、誠実な魂の仮借《かしゃく》なき本能には、どうして抵抗することができよう?――で彼はついに神聖なる作品をひらいた。最後の予備隊、近衛《このえ》兵……をもくり出した。そして一目見ると、それらもやはり他の作品と同じく無瑾《むきず》ではなかった。彼は読みつづけるだけの勇気がなかった。時々、読みやめては本を閉じた。彼はノアの息子《むすこ》のように、父親の裸体にマントを投げかけたのであった……。
やがて彼は、それらの廃墟《はいきょ》の中に困惑してたたずんだ。神聖な幻影を失うくらいなら、むしろ自分の片腕を失っても惜しくなかった。心の中の死の悲しみだった。しかし彼のうちには強い活気が宿っていたので、芸術にたいする信頼の念は、そのために動揺されはしなかった。青年のひたむきな自負心をもって、あたかも自分より前にはだれも生きた者がないかのように、ふたたび生活を開始した。生きた熱情と、それに対する芸術の表現との間には、ほとんど例外なしになんらの関係もないということを、彼は自分の新しい力に酔いながら感じていた――おそらく理由がないでもなかったろうが。しかし彼がみずから熱情を表現した時、よりうまくより真実にやれたことと思ったのは、誤りであった。彼はまだそれらの熱情に満たされていたので、自分の書いたもののうちにそれらを見出すのは容易であった。けれども彼以外の他人には、彼が使ったような不完全な彙語《いご》のもとにそれらを認知し得る者は、一人もなかったであろう。彼が非難した多くの芸術家についても、同様であった。彼らは皆、深い感情をいだきそれを表現した。しかし彼らの用いた言葉の秘訣《ひけつ》は、彼らとともに死んでしまったのである。
クリストフは少しも心理学者ではなかった。それらの理由には少しも困らされなかった。自分にとって滅びたものは、永久に滅びたものとなるのであった。彼は青春の自信深い強烈な不正さをもって、過去の人々にたいする自分の批判を点検した。彼は最も高尚な魂をも赤裸になして、その滑稽《こっけい》な点をも無慈悲にえぐり出した。メンデルスゾーンのうちには、あり余った憂愁、気取った幻想、空虚な思想などがあった。ウェーバーには、ガラス細工や金ぴか、心の乾燥、頭だけの情緒。リストは、気高い長老で曲馬師で新古典派で香具師《やし》、実際の気高さと偽りの気高さとの同分量の混合、晴朗な理想と厭味《いやみ》な老練さとの同分量の混合。シューベルトは、無色透明な数千メートルの水底にあるかのように、多感性の下にうずくまってるのであった。その他、英雄時代の古人、半人半神、予言者、教会の長老、皆クリストフの批判を免れなかった。数世紀にまたがりおのれのうちに過去未来を包括《ほうかつ》してる、偉人セバスチアン――セバスチアン・バッハ――でさえも虚偽や世俗の愚劣さや書生じみた饒舌《じょうぜつ》などから、まったく免れてるとは言えないのであった。神を見たこの人も、クリストフの眼から見れば往々にして、面白くもない甘っぽい宗教があり、偽善的な陳腐《ちんぷ》な様式があった。その交声曲《カンタータ》のうちには、恋と信仰との憔悴《しょうすい》の曲調があった。――(嬌態《きょうたい》の魂とキリストとの対話が。)――クリストフはそれに胸を悪くした。ダンスの足取りをしている豊頬《ほうきょう》の天使を見るような気がした。それにまた、この天才的楽匠はいつも閉《し》め切った室の中で書いてたように、彼には感ぜられた。幽閉の感じが漂っていた。おそらく音楽家としては劣っていたろうが、しかし人間としてはすぐれた――ずっと人間的な――他の人々に、たとえばベートーヴェンやヘンデルなどにあるような、外界の強い空気の流れが、その音楽の中には存していなかった。また古典派《クラシック》作家らのうちで彼の気色を害したことは、自由の欠乏であった。彼らの作品では、ほとんどすべてが「組み立て」られたものであった。あるいは、月並みな音楽的修辞法で誇張されてる情緒があり、あるいは、機械的な方法であらゆる
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