になったのかもわからなかった。彼は顔を赤らめた。ある時などは、最も幼稚なページを一つ読んだあとで、室にだれもいないかふり返って見て、それから恥ずかしがってる子供のように、寝台のところへ行って枕《まくら》に顔を隠したこともあった。またある時は、自分の笑うべき作品がいかにも滑稽《こっけい》に思えて、我れながら自分の作であることを忘れた……。
「ああ馬鹿だなあ!」と彼は腹をかかえて笑いながら叫んだ。
しかし最も厭味《いやみ》なのは、恋愛の苦しみや喜びなど、熱烈な感情を表現したつもりでいる曲譜だった。彼は蚊にでもさされたかのように、椅子《いす》の上に飛び上がった。テーブルを拳《こぶし》でうちたたき、憤怒《ふんぬ》の喚《わめ》き声をたてながら、みずから頭をたたいた。荒々しくみずからののしり、豚だの恥知らずだの大馬鹿者だのと自分を呼んで、しばらくはある限りの悪口を自分に浴びせた。しまいには怒鳴り散らしたために真赤《まっか》になって、鏡の前につっ立った。そして頤《あご》をつかみながら言った。
「見ろ、見ろ、間抜《まぬけ》め、なんという馬鹿な顔をしてるんだ! 嘘もいい加減にしろ、無頼漢《ならずもの》め! 水だ、水だ!」
彼は顔を盥《たらい》につき込んで、息がつまるまで水につけておいた。そして顔を充血さし、眼をむき出し、海豹《あざらし》のように息を吐きながら、水から顔を出すと、身体にしたたる水を拭《ぬぐ》いもやらず、急いでテーブルのところに行き、のろわれたる作品を引っつかみ、それを猛然と引き裂きながら、つぶやいた。
「こら、やくざ者め!……こら、こら!……」
そしてようやく胸をなでおろした。
それらの作品がことに彼を激昂《げっこう》さしたゆえんは、その虚偽であることだった。ほんとうに感じたものは何もなかった。暗誦《あんしょう》した句法、小学生徒の修辞法ばかりだった。盲人が色彩のことを語るような調子で、彼は恋愛を語っていた。流行の幼稚な説をくり返しながら、聞きかじりで語っていた。そしてただに恋愛ばかりでなく、あらゆる熱情が、放言の題目に使われていた。――それでも彼は常に真実たらんと努めたのであった。しかし真実たらんと欲するだけでは足りない。真実であり得なければいけない。そして、まだ少しも人生を知らないうちに、いかで真実たることを得よう? それらの作品の虚構を彼に開き示してくれたものは、彼と彼の過去との間ににわかに溝渠《こうきょ》を穿《うが》ったものは、最近半年間の経験であった。彼は幻影から脱出していた。今や彼は、おのれのあらゆる思想の真偽の度を判断するためにあてがい得る、現実の尺度を所有していた。
彼は熱情なしに作られた昔の曲譜に嫌悪《けんお》の情を覚えたので、その結果例の誇張癖から、熱烈な要求に迫られて書かせられるもののほかは、もういっさい書くまいと決心した。そして観念の探求をそこに中止して、もし創作熱が雷電のように落ちかかって来るのでなければ、永久に音楽を捨てようと誓った。
彼がかくみずから誓ったのは、雷鳴が到来しつつあることをよく知っていたからである。
雷は、みずから欲する所にまた欲する時に、落ちる。しかし笛を引きよせる高峰がある。ある場所――ある魂――は、雷鳴の巣である。それは雷鳴を創《つく》り出し、あるいは地平の四方から雷鳴を呼ぶ。そして一年のある月と同じく、生涯《しょうがい》のある年齢は、きわめて多くの電気を飽和しているので、迅雷《じんらい》がそこに生じてくる――随意にでなくとも――少なくとも期待する時に。
全身が緊張する。幾日も幾日もの間、雷鳴が準備される。燃え立った入道雲が、白けた空にかかっている。一陣の風もない。澱《よど》んだ空気が発酵して、沸きたっているように見える。大地は茫然《ぼうぜん》として沈黙している。頭脳は、熱にとどろいている。全自然は、蓄積された力の爆発を待ち、重々しく振り上げられ、黒雲の鉄碪《かなしき》の上に一挙に打ちおろされんとする、鉄槌《てっつい》の打撃を待っている。陰惨な熱い大きな影が通り過ぎる。熱火の風が吹き起こる。全身の神経は、木の葉のようにうち震える。――それから、また沈黙が落ちてくる。空はなお雷電を醸《かも》しつづける。
かかる期待のうちには、一つの歓《よろこ》ばしい苦悶《くもん》がある。不安に押えつけられながらも、人はおのれの血脈中に、宇宙を焼きつくす火が流れるのを感ずる。醸造|樽《だる》中の葡萄《ぶどう》の実のように、飽満せる魂は坩堝《るつぼ》の中で沸きたつ。生と死との無数の萌芽《ほうが》が、魂を悩ます。何が生じて来るであろうか? 魂は姙婦のように、自分のうちに眼を向けて口をつぐみ、胎内の戦《おのの》きに気づかわしげに耳傾ける。そして考える、「私から何が生まれるであろうか?」時に
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