ば、水中に光っているのが見える怪物を、いつでも引き上げられるだろう。今はそれをただ通らしておく。……あとのことだ!
暖かい風とわからないくらいのかすかな流れとのままに、舟は漂っている。穏やかで、日が輝《て》り渡り、寂然《じゃくねん》としている。
ついに彼は懶《ものう》げに網を投じる。水沫《しぶき》の立つ水の上に身をかがめて、見えなくなるまで網を見送る。しばらくぼんやりしたあとに、ゆるゆると網を引く。引くに従って網は重くなる。水から引き上げようとする間ぎわに、ちょっと手を休めて息をつく。獲物を手に入れてることはわかるが、どんな獲物だかはわからない。彼は期待の楽しみをゆるゆると味わう。
彼はついに意を決する。燦然《さんぜん》たる甲鱗《こうりん》の魚類が、水から現われてくる。巣の中の無数の蛇《へび》のように、身をねじっている。彼はそれらを珍しげにながめ、指で動かし、美しいのをちょっと手に取りたくなる。しかし水から出すとすぐに、その光沢は褪《あ》せてきて、その姿が指の間に融《と》け込む。彼はそれを水に投げ込み、また他のを漁《あさ》り始める。自分のうちに動いてる幻想を、どれか一つ選び取るよりも、むしろそれらを皆代わる交わるながめてみたくなる。透明な湖水の中に自由に泳いでる時の方が、ずっと美しいものに思われる……。
彼はそのあらゆる種類のものを漁りだした。いずれも皆奇怪なものばかりだった。数か月来彼のうちにはあらゆる観念が積もっていて、しかも彼はそれを利用し費消することがなかったので、今やその豊富さになやんでいた。しかしすべてが雑然と交り合っていた。彼の思想は物置場であり、ユダヤ人の古物店であって、珍稀な器物、高価な布、鉄|屑《くず》、襤褸《ぼろ》などが、同じ室の中に堆《うずたか》く積まれていた。どれが最も価値あるものであるかを、彼は見分けることができなかった。いずれにも同じく興味がもてた。和音のそよぎ、鐘のように鳴り響く色調、蜜蜂《みつばち》の羽音に似た和声《ハーモニー》、恋せる唇《くちびる》のように微笑《ほほえ》む旋律《メロディー》。また、風景の幻影、人の面影、熱情、霊魂、性格、文学的観念、形而上学的《けいじじょうがくてき》観念。また、雄大不可能な大計画、あらゆるものを音楽で摘出し種々の世界を包括《ほうかつ》せんとする、四部作《テトラロジー》や十部作《デカロジー》。また多くは、一つの声音、街路を通る一人の男、風の音、内心の律動《リズム》、など些細《ささい》なものからにわかに呼び起こされる、仄《ほの》かな明滅する感覚。――それらの計画の多くのものは、ただ題名だけでしか存在していなかった。一つもしくは二つ限りの主調にまとめられるものであったが、それで十分だった。ごく若い人々と同じく彼もまた、創造しようと夢想していたものを創造したのだと信じていた。
しかし彼はかかる煙のごときもので長く満足するには、あまりに多く生活力をそなえていた。彼は空想的な所有に飽きて、幻想を実際につかみ取ろうとした。――まずいずれより始むべきか? いずれの幻想も皆等しく重要なものに思われた。彼はそれらをくり返しまたくり返して調べた。投げ捨ててはまた取り上げた。……否もう、元のを取り上げるのではなかった。もう同じものではなかった。二度ととらえることはできなかった。たえず幻想は変化していた。ながめてるうちにも、手の上で眼の前で、変化した。急がなければならなかった。しかも彼は急いでやることができなかった。自分の仕事の緩慢さに困りぬいた。全部を一日に仕上げたいほどであるのに、わずかな仕事をしでかすのにも非常な困難を感じた。最もいけないことには、着手したばかりでもう厭《いや》になった。幻想は通り過ぎてゆき、彼自身も通り過ぎていった。一つのことをやってると、他のことをやれないのが残念だった。りっぱな主題を一つ選み取っただけで、もうその主題に興味がなくなるように思われた。かくてそのあらゆる財宝も、彼には役にたたなかった。彼の思想は皆、彼が手を触れさえしなければ生き生きとしていた。首尾よくとらえると、もうすでに死んでいた。それはタンタルスの苦痛に似ていた。届く所に果実がなっているけれど、それを手に取ると石になった。唇《くちびる》の近くに清水があるけれど、身をかがめると遠のいてしまった。
彼は渇《かつ》を癒《いや》さんがために、すでに手に入れた泉で、自分の旧作で、喉《のど》をうるおそうとした。……厭な飲料! 彼はそれを一口含むや、ののしりながらすぐに吐き出した。何事ぞ、この生|温《あたた》かい水が、この空粗な音楽が、自分の音楽であったのか?――彼は自分の作曲をひとわたり読み返してみた。そして駭然《がいぜん》とした。さらに腑《ふ》に落ちなかった。どうしてそんなものを書く気
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