は、期待が無駄《むだ》になることもある。雷鳴は破裂せずに消えてしまう。人は頭が重く、張り合いがぬけ、気力疲れ、厭気を催して、我れに返る。しかしそれは時期が延びたばかりである。雷鳴はやがて起こってくる。今日でなければ明日であろう。延びれば延びるほどますます激しくなるだろう……。
 それ今起こった! 要は一身のあらゆる深みから湧《わ》き出した。青黒色の濃密な集団となった雲は、狂わんばかりに打ちはためく電に劈《つんざ》かれて、魂の地平を取り囲みながら、息をつめてる空を双《そう》の翼で荒々しく打ちながら、日の光を消しながら、眼|眩《くら》むほどにかつ重々しく翔《かけ》ってくる。狂暴の時間!……猛《たけ》りたった自然原素は、精神の平衡と事物の存在とを確保する「法則」から閉じ込められていたその籠《かご》を脱して、巨大雑多な形を取り、意識界の暗夜を支配する。人は臨終の苦悶を感ずる。もはや生きようとは望まない。ただ望ましいものは、終末のみである、解放の死のみである……。
 そしてにわかに、電光がひらめく!
 クリストフは喜びの喚《わめ》き声をたてていた。

 喜び、激越なる喜び、存在し存在するであろうすべてのものを照らす太陽、創造の崇高なる喜び! 創造することより他《ほか》に喜びはない。創造する人々より他に生きてるものはない。他の者はすべて、生命とは無関係で地上に浮かんでいる影にすぎない。生のあらゆる喜びは、恋愛、才能、行為など、皆創造の喜びである! ただ一つの火炉から立ちのぼる力の火炎である。その大なる竈《かまど》のまわりに席を有しない人々も――野心家、利己主義者、空疎な遊蕩《ゆうとう》児なども――その色|褪《あ》せた反映に身を暖めようとする。
 肉体界もしくは精神界において、創造することは、身体の牢獄《ろうごく》から脱することであり、生命の※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》中に飛び込むことであり、「存在する者」となることである。創造すること、それは死を殺すことである。
 永久に生命の炎が一つも発しないような、おのれの干乾《ひから》びた身体とおのれのうちにある暗夜とを、ただいたずらにうちながめながら、地上に孤独のまま埋もれてる無益なる存在者こそ、実《げ》にも不幸である。花をつけた春の樹木のように、生命と愛との豊饒《ほうじょう》な重みを、少しも感ずることのない魂こそ、実《げ》にも不幸である。世間は名誉と幸福とをその上に積み重ぬるとも、それは死骸《しがい》に冠するものである。

 クリストフは一|閃《せん》の光に打たれた時、一つの放電が全身に伝わった。彼はぎくりとして震えた。それはあたかも、海洋の中にあって、暗夜の中にあって、陸地を見出したようなものだった。あるいはまたあたかも、群集の中を通りながら、二つの深い眼にぶつかったようなものだった。そういう現象はしばしば、精神が空虚のうちに身悶《みもだ》えをする悄沈《しょうちん》の時間のあとに起こった。しかしまた、人と話をしあるいは街路を歩きながら、他のことを考えてる瞬間に、なおしばしば起こった。街路にある時には、人前をはばかって、その喜びをあまり激しく現わすことができなかった。しかし家にいる時には、もうなんの拘束もなかった。彼は足を踏み鳴らした。勝鬨《かちどき》の喇叭《らっぱ》を奏した。母はそれに慣れてきて、ついにはその意味を覚《さと》るようになった。卵を産みたての牝鶏《めんどり》のようだと、彼女はよくクリストフに言った。
 彼は音楽的観念に浸透されていた。その観念は、独立した完全な楽句の形をなしてることもあったが、多くは、一つの作品全部を包み込む大きな星雲の形をなしていた。その楽曲の結構は、主要の筋道は、彫刻的の明確さで影から浮き出してる眩《まばゆ》いばかりの楽句を、ところどころに鏤《ちりば》めた覆《おお》いを通して、おのずから見えていた。それは一つの閃光《せんこう》にすぎなかった。また時とすると、相次いで多くの閃光が起こることもあって、各閃光は暗夜の各すみずみを照らした。しかし普通は、その気まぐれな力は、いったん不意に現われたあとに、輝いた尾をあとに残しながら、おのれの神秘な隠れ家の中に消え失《う》せて、数日姿を現わさなかった。
 そういう霊感《インスピレーション》の悦《よろこ》びは、クリストフに他のすべてをきらわしたほど熾烈《しれつ》なものだった。経験に富んだ芸術家は、霊感はまれなものであることを知っており、直覚の作品を完成するには理知にまつべきものであることを、よく知っている。彼はおのれの観念を搾木《しぼりぎ》にかけ、それに含んでる醇良《じゅんりょう》な汁《しる》を、最後の一滴までも滴《したた》らせる。――(時によっては白水を割ることさえも辞さない。)――しかし
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