憚《はばか》り、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。食事が済むとすぐ別々になった。クリストフはまた仕事に出かけていった。しかしちょっとでも隙《ひま》があると、家にもどって来て、ひそかにはいってゆき、自分の室か屋根裏かに、爪先《つまさき》立って上っていった。そして扉《とびら》を閉め、古い鞄《かばん》の上や窓縁の上など、片隅《かたすみ》にすわって、そのままじっと何にも考えないで、少しの足音にも震えるような古い家のそれともない物音に、心を浸すのであった。彼の心もその家のように震えていた。家の内外の空気の流れ、床板の軋《きし》り、聞きなれたかすかな物音、それらを気懸《きがか》りそうに窺《うかが》った。どれにも皆聞き覚えがあった。彼はぼんやり意識を忘れて、頭には過去の面影が立ち乱れていた。サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然《ぼうぜん》としていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。
階下《した》には、ルイザの足音が静かに行ったり来たりしていた。幾時間もその足音の聞えないことがあった。彼女は何の物音もたてなかった。ク
前へ
次へ
全295ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング