声ではっと我にかえった。
「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
「なぜ?」
 老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。
 彼女は答えなかった。
 彼は言った。
「お前は恐《こわ》がっているね。彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
「ええ、そうでございます。お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。あなたはきっとお怒りなさいます。いやです。お願いですから!」
 老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
「よしよし。」
 彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。彼は一段ごとに立止った。息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危
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