力が、感覚よりも他の力が、――普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり――みずから理由も知らないで――彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。
 結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。あるいはまた彼は、居酒屋に立
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