も、其他凡て、その時の私の心に添わない。しいて求むれば、臨兵闘者皆陣裂在前……九字を切るくらいのものだ。だがその気持は、護身のためではなく、積極的な呪咀の秘法だ。私はその形を得て、その心をも得たように思う。
この稲荷様のことについて、私はふと、へんな話をきいたのである。
母が気分がよくて、床の上に坐っていた或る日、見舞に来た近くの奥さんの、とりとめもない世間話のなかの一つ……それを私は、隣室にねころんで、雑誌の頁をめくりながら、聞くともなしに耳に入れた。
或る店屋のお上さんが、その稲荷様を大変信仰していたらしい。二つになる子供が病気した時には、殊に屡々お詣りするようになった。結婚後五六年たって出来た一人娘で、それが消化不良になったのである。娘は半年ばかりの後に亡くなった。
お上さんはまるで呆けたように、ぼんやり日を過した。その娘の四十九日の忌が明けた頃から、時々家をぬけ出すようになった。家をぬけ出して、稲荷様のあの祈祷所のところに、じっと蹲っているのである。一晩中、そして夜が明けてからも、なおそこに蹲っている。家人が来て連れ戻そうとすると、すなおに云うことをきく。けれどもまた
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