と酔歩をはこんでくると、祈祷所の中から、何やら呟く声が聞える。立止って耳を澄ませば、たしかに祈念をこらしてる声だ。吐く息につれて高まり、引く息につれて低まり、文句はさらに分らないが、調子をとって断続する声の響きだ。
 私はそこに佇んで、耳を、いや心を、傾けて聞いていた。訴えるでもない。怨むでもない、あやしいおののきが、私の身体につたわってくる……。
 人の祈念は、たとえ白昼でも、殊に深夜では、わきから窺うものではない。或る忌わしい惑わしを受ける。私もその惑わしを受けたのであろうか。ポンポンと軽い拍手の音がして、黒い人影が立現れ、体格は頑丈で壮年らしいが、少し腰をまげた男が、草履ばきですたすたと、鳥居の列の中を、見返りもしないで、立去っていった後、私はそのあとにはいりこんで、狐格子の前にうずくまったのである。
 土とも蝋とも香ともつかない、ごくかすかな匂いが、鼻をついてき、身体をつつむ。狐格子の中の暗がりには、鏡の面に、かすかな光があやしく漂っている。そして私は、先刻の男と丁度同じ場所に、同じ姿勢で、屈んでいるのだ。ただ私には祈りの文句がない。母の病気平癒も、私の恋愛の安泰も、研学の進歩
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