なのは、二人もしくは数人の対坐した情景である。その間の会話のやりとりや心理の交錯を、平板にも陥らず説明にも堕せずに書き現わすことは、容易でない。「紋章」ではこの困難が特殊の方法できりぬけられている。例えば、「私」が善作と初めて逢った場面、「私」と雁金と久内と敦子とが奇怪な会食をなす場面、山下博士邸の茶会の場面など、それぞれの人物性格がしっくりと描き出され、その種々の心理の微妙なもつれが鮮かな縞目を織り出している。そして茲で注意すべきは、人物のそれぞれの言葉が、文字の上では言葉として書かれているが、地の文と同じ地位を占めていることである。言葉は一度何物にか濾過されて、言葉それ自体の生命を失い、変貌して地の文の中にとけこみ、そこで新たな生命を獲得する。そしてそこに微妙な心理交錯の縞目を織り出す。
然るにこれが他の場面、例えば、久内と初子とが最後に(小説の中での)食事をするところや、久内が家を出て暮そうとの決心を妻の敦子にうちあけるところなどになると、濾過された言葉が死んで、地の文の中でさえ力を失ってくる。その刻々の情意の昂揚や変動に、言葉が――そして地の文までが、追っついていけないで、後
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