「紋章」の「私」
豊島与志雄
横光利一氏の「紋章」のなかには、「私」という言葉で現わされてる一人の文学者が出てくる。彼は、主要な人物たる雁金八郎と山下久内とに、共に交誼があり、山下敦子や綾部初子や杉生善作とは顔見知りであり、雁金の発明実験所や山下家の茶会や其他いろいろのところに、出入する。そしていろいろの事物やいろいろの説明が、彼によって述べられる。が彼は作中の事件には何の関係交渉もなくただ傍観者にすぎない。――この「私」は、誰でもよいと共にまた作者自身でもある。
こういう「私」という人物を出して、傍観者たり説明者たり報告者たる地位におき、それを叙述の一便法とする方法は、屡々用いられることである。この場合、「私」は大抵、作中の人物や事件から独立した一人の人間で、その独自の存在がはっきりすればするほど、益々作品そのものとは無関係な地位になる、そういう種類のものなのである。例えば、谷崎潤一郎氏の「春琴抄」の中で春琴の墓を訪う「私」がそれである。
ところで、「紋章」のなかの「私」は、そういうなまやさしいものではない。最初に述べたような「私」、または、雁金が敦子にあって我を忘れた行為を
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