するところに立会った「私」、山下家の茶会に出席した「私」、それらのものだけを見ると、一見、普通の「私」と異らないもののようであるが、実はそうでなく、その「私」が全篇の中に浸透していて、それは単に叙述の便法として使われた傀儡ではなく、作者そのものと同一の地位にまで高まっている。この意味をはっきりさせるためになお云えば、山下家の第一回の茶会は、「私」が出席してその私の眼を通して叙述されており、後の茶会は、「私」が出席しないで普通の仕方で叙述されているが、それが両方とも同一の色調を呈している。これは、前者に於て「私」が無きに等しいものとなされてるからではなく、後者に於て、たとい「私」は姿こそ現わさないが、その影が全部に被いかぶさってるからであろう。
如何なる客観的手法の作品でも、畢竟は作者の私によって見られ感じられ叙述されるのではあるが、また、如何なる主観的手法の作品でも、畢竟は現実的実体を描出せんとするものではあるが、然し、普通は叙述の便宜な手段として使われる「私」なるものを、作者自身の私と同じ地位にまで引上げるこうした創作態度は、作品に特殊な趣を与える。
作品の中で普通に最も叙述困難
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