は主婦に会いたい、是が非でも会わせろと云いだした。そして部屋に通されると食ってかかるような剣幕で、彼はこう訊いた。
「奥さん。面談したいことがあるから、起きて、寝床《とこ》から出てもらえないかね」
 すると彼女はその焦点のない、うつろな眼を将校のほうに向けた。が、うん[#「うん」に傍点]ともつん[#「つん」に傍点]とも答えなかった。
 将校はなおも語をついで云った。
「無体もたいていにしてもらいたいね。もしもあんたが自分から進んで起きんようじゃったら、吾輩のほうにも考えがある。厭でも独りで歩かせる算段をするからな」
 しかし彼女は身動きひとつしなかった。相手の姿などはてんで眼中にないかのように、例によって例のごとく、じいッとしたままだった。
 この落つき払った沈黙を、将校は、彼女が自分にたいして投げてよこした最高の侮蔑だと考えて、憤然とした。そして、こうつけ加えた。
「いいかね、明日《あす》になっても、もし寝床から降りんようじゃったら――」
 そう云い残して、彼はその部屋をでて行った。
 その翌日、老女は、途方に暮れながらも、どうかして彼女に着物を著《き》せようとした。けれども、狂女は身を※[#「あしへん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて泣きわめくばかりだった。そうこうしているうちに、もう例の将校が這入って来てしまった。老女はそこで彼の膝にとり縋《すが》って、泣かんばかりにこう云った。
「奥さんは起きるのがお厭なんです。旦那、起きるのは厭だと仰有《おっしゃ》るんです。どうぞ堪忍《かんにん》してあげて下さい。奥さんは、嘘でもなんでもございません、それはそれはお可哀相なかたなんですから――」
 少佐は腹が立って堪らないのだったが、そうかと云って、部下の兵士に命じてこの女を寝台から引き摺りおろすわけにも行きかねたので、いささか持余《もてあま》したかたち[#「かたち」に傍点]だったが、やがて、彼は出し抜けにからからと笑いだした。そして独逸《ドイツ》語で何やら命令を下した。
 するとまもなく、幾たりかの兵士が、負傷した者でも運ぶように蒲団の両端をになって、その家から出てゆくのが見えた。すこしも形の崩れぬ寝床のなかには、例の狂女が、相かわらず黙々として、いかにも静かに、自分の身にいまどんな事件が起っているのか、そんなことにはまるで無関心であるらしく、ただ寝かされたまま
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