して私は見つめ見つめたがさて、私はたしかに後にも先にも生涯にただ一度の、気絶をしてしまったらしかった。たしかに気絶をしたに相違なかった、――私の目の前には、明かに灰色の霧が渦巻いた。そしてその霧が晴れた時は、私のカラのボタンは外され、唇には、ブランデーの刺すような味感がのこっていた。そしてホームズは、彼の水筒を持って、私の椅子の上から、蔽いかぶさるようにのしかかっていた。
「おい、ワトソン君!」
 よく聞きおぼえのある声が響いた。
「すまない、すまない。実にすまなかった。僕はまさか、君はそんなにまで驚くとは思わなかったのだ」
 私はしっかりと彼の両腕をとった。
「ホームズ君!」
 私は思わずも叫んだ。
「一たい本当に君なのかえ? 君が生きているなどと云うことは、有り得ることなのかえ? 君はあんな恐ろしい深淵から、這い上ることが出来たのかえ?」
「まあ、待ちたまえ」
 彼は言葉をさしはさんだ。
「一たい君は、物を云っても大丈夫かね? 僕は全くつまらない、劇的な出現などをして、しっかり君を驚かしてしまったが、――」
「いや、もう大丈夫だ。しかし、しかしホームズ君、僕はどうしても自分の目を信ずることは出来ないよ。おいこればかりは助けてくれよ。だって君、人もあろうに、シャーロック・ホームズが、僕の書斎に、現われるなどと云うことは、どうして信じられよう」
 こう云って私は再び、彼の袖の上から腕をつかんだ。つかんでみればたしかに、彼の筋張った痩せた腕が、袖の底に感じられた。
「いや、とにかく君は、幽霊ではないだろう。幽霊でないことだけはたしかなのだろう。おい懐しい変り者め。僕は君に逢って、全く無精《むしょう》に嬉しい。さあとにかくそこに腰を下したまえ。そしてどうして君が、あんな恐ろしい断崖から生きて還ったか、その顛末を話してくれたまえ」
 彼は私の向う側に腰を下した。そして例の人を食った冷やかな調子で、煙草《たばこ》に火をつけた。彼は書籍商らしい見すぼらしいフロックコートを着ていたが、その他、真白な頭髪と云い、また机の上に置いた古書籍と云いたしかに書籍商を思わしめるものであった。ホームズは以前よりももっと痩せて、かつ鋭く見えたが、その鷲のような顔には、たしかに死相を思わしめる蒼白さがあった。それで私は、彼は近頃は決して健康ではないのだと思った。
「ワトソン君、僕はぐーっと脊伸び
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