のであって常に起伏し変転している。私は仮に一日二十四時間といえども一つの生活状態に専らであり得ない、まして絶対に母性中心を以て生涯を終始することは私が絶対に芸術性中心を以て生涯を終始するのと同じように不可能である。そうしてこの不可能は私ばかりでなく一切の女の上に言い得ることである。例えば私が自分の子供に乳を呑ませようと注意した時に私の現在は母性を中心として生きているが、次の刹那《せつな》にまだ自分の乳房を子供の口に含ませているにかかわらず、最早私の生活の中心は移動して、私は或一篇の詩の構想に熱中していることである。前の私が母性中心の状態にあることはその時私の子供の哺育のために必要である。その必要に用立った後に私の母性が中心の位地を次に登って来た芸術性に譲り、その芸術性の無数な背景の一つとなって私の意識の奥に遠《とおざ》かってしまうのは当然である。二つの物は同時に同じ位地を占め得ない。子供を哺育する時に専ら母性中心であり、詩を作る時に専ら芸術性中心であるからこそ哺育と詩作の二つの事が私の生活に遂げられるのである。私はどうしても絶対的母性中心の生活を営み得る状態を想像することが出来ない。も
前へ
次へ
全19ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング