情味を持つ訳がないのです。家屋の内外には関係がありません。今一つは職業婦人を遇する新しい習慣がまだ社会に出来ていなくて、余りにだらしなく[#「だらしなく」に傍点]時間を多く使用させるからです。私は巴里《パリイ》で幾人かの有夫女子の会社員や工場労働者の家庭を見ましたが、朝は子供を学校まで送って行き、正午は勤め先から学校へ子供を迎えに行って、同時に他の勤め先から帰って来た良人と、夫婦子供|揃《そろ》って一所に食卓に就くのです。食事は路すがら麺麭《パン》と冷し肉ぐらいを買って来るのですから、唯だ瓦斯《ガス》で珈琲《コーヒー》を煮るだけで簡単に済まされるのです。それからまた父か母のいずれかが子供を学校に送って、夫婦は再び勤め先へ行きます。東京のようにだだ[#「だだ」に傍点]広くない都ですから勤め先も近く、少し位遠くても地下電車で訳もなく行かれます。巴里の公私の勤先が、こういう風に一定の時間を労働者夫婦に許しているのは善い習慣だと思います。こういう事も婦人労働者の要求が勢力を持てばきっと我国にも実現されるでしょう。
平塚さんは、私が母性の保護に反対するのは「子供を自己の私有物視し、母の仕事を私的事業とのみ考える旧式な思想に囚《とら》われているからだ」といわれました。何たる恐しい断言でしょう。
私は子供を「物」だとも「道具」だとも思っていない。一個の自存独立する人格者だと思っています。子供は子供自身のものです。平塚さんのように「社会のもの、国家のもの」とは決して考えません。平塚さんは「子供の数や質は国家社会の進歩発展と、その将来の運命に至大の関係がある」といって、国家主義者か軍国主義者のような高飛車な口気を洩《もら》されておりますが、私たちの子供もきっと国家を愛し、社会を愛し、更に世界人類を愛して、そのいずれもの進歩発展を計る時が来るでしょう。しかしそれは彼ら自身の愛と事業とが――端的に彼らの自我が――世界人類を包容しないではおられない所まで進歩発展するのです。彼らは国家の所有でなくて、彼らが国家を自己の人格の中に一体として所有するのです。前に引用した有島武郎さんのお言葉も私の考えと同じ意味だと思います。
平塚さんは「母」の意義をいろいろと教えて下さいましたが、私はかつて述べたように、母たる自尊を「世界人類の母」となる所まで拡充して生きたいと考えています。老子《ろうし》の
前へ
次へ
全14ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング