いわゆる「道、これを生じ、これを畜《やしな》い、これを長じ、これを育て、これを成し、これを熟し、これを養い、これを覆い、生んで有せず、為して憎まず」という大道的な境地にまで生きたいと考えています。私は最上の愛国者です。それ故に、特に国家とか社会とかいう中間の人生観や倫理観に停滞していたくありません。最上の立場から国家をも社会をも愛したいのです。
 平塚さんは母が国家のお役に立つという意味から、国家の母性保護を至当とされています。私はそういう意味からでなく、食糧に窮する貧困者に施米または廉米を供給するのと同じ意味から、母の職能を尽し得ない貧困者を国家が保護するのは国家の義務だと考えて全く賛成するのですが、精神的にも経済的にも、自労、自活、自立、自衛する可能性を持っている個人が、父にせよ、母にせよ、妻にせよ、国家の保護に由って受動的隷属的な生き方をするのは、個人の威厳と自由と能力とを放棄する意味において反対するのです。
 「保護」という官僚式な言葉には救済的恩恵的の意味があります。現に我国の救済調査会の項目には、白痴低能児の保護、不良少年の保護、細民部落の保護と並んで婦人労働者の保護が掲げられております。
 最近に或識者は、「凡そ中層階級が自らも他からも健全なりと見做《みな》さるる理由は、自らその生活を保持し、これを充実し向上せしめ、他の施設恩恵を俟《ま》たぬがためである。しかるに今の中層は自己生活の充実向上の施設を、動《やや》もすれば国家社会の手に委ね、それに依って慶福を得んとしている。かかるは中層自らがその地位を捨てて下層と同じからんとする者にして、いわゆるその健全を捨てて社会的疾患たるに甘んぜんとする卑屈なる精神である」と論じました。私は自分と同憂の人のあるのを嬉しく思います。カントが「商人あるいは手工業者の雇人、僕婢《ぼくひ》、日傭《ひやとい》労働者、小作人及び総ての女子等、約言すれば他人より「食物及び保護」を受くる総ての人々を国民とは認めず、単に国家補助員と見做《みな》していた」というのは、その人格論に由来する正当な結論であろうと思います。
 山川さんは「もしそれ保護が屈辱であり、非難に価するならば、恩給や年金に依って生活を保障されている軍人や官吏の古手も皆非難に価する屈辱的生活を送っている訳ではあるまいか」といわれ、他の二女史も同様の詰問をされています。私は
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