婦たちの食糧運動を評された文中に「思うに漁村の女子は、生れ落ちると怒濤《どとう》の声を聞き、山なす激浪を眺め、長ずれば梶《かじ》も取り櫓《ろ》も漕ぎ、あるいは深海に飛込んで魚貝を漁《あさ》って生活しているので、自《おのずか》ら意志が強固になり、独立自存の気象に富んでいる。海浜または島嶼《とうしょ》に住んでいる女子が男|勝《まさ》りに気概があり、権力が強く、女子の社会的地位の高いのは一般的である。これらの漁村に住む女子は経済的独立の思想が発達しているから、家庭生活に対する困苦と責任とを実感する程度が強い。家庭の経済的責任を男子に委ねて、その従属者として生活しているのでなくて、女子もこれに加《くわわ》り、相本位的に独立の主体として解釈している結果である」とある一節を引いて、社会の一部には既存の事実であることを証明して置きます。なお、農家と商工業界との女子にも、今日の努力の程度で許される経済的独立の実例は決して寡《すくな》くありません。
 日本の工場労働者の約六割までが婦人であり、それらの婦人労働者の総数が六十三万六千余人であるのを見ても、それら下層階級の婦人が必要の前に如何に労働を回避しない美質を持っているか、如何に不完全|極《きわま》る労働制度の中にあって、苛酷な労働を忍びながら、決して正当の報酬でない貧弱な賃銀を以て、なおかつ父兄の厄介とならない独立の生活を申訳だけにも建てつつあるかを思う時、私は一般婦人の経済的独立が十分に可能的なものであることを推定せずにおられません。
 工場労働の現状の惨《いた》ましさは私も知っています。しかし今日の制度の中においてすら、次第に或程度まで改善されて行く見込があります。現状のみを見て未来を決定してはなりません。或社会主義者のいったように、人間が遍《あまね》く働くようになれば一人が一日に一時間と二、三十分働きさえすれば充分である時機が来ないとも限らないでしょう。社会主義者ならぬ福田博士も「貧乏と無学とが全く人類社会より断ち得んとの希望は、十九世紀における欧洲労働者の著しき進歩の実績に徴する時は、必ずしも架空に属せざるに似たり」と述べておられます。
 平塚、山田の二女史は工場労働に重きを置いて、女子の屋外労働を批難されましたが、女子の屋内における経済的労働の範囲の広いことは、その大部分を占めている屋内工業だけでも、女子の製品の総輸出額
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