の生活を充たして行くことです。「今日の社会にあっては、その種類の何たるを問わず、遊手坐食はいずれの方面より観察するも断じて許さざる所である。……労働を重んずると賤《さげす》むとが新旧世界を分画する最も著明な境界線である」(滝本博士)という思想に何人《なんぴと》も異論はないと思います。
しかるに三女史とも共通の、もしくは個別的の種々の理由から、積極的もしくは消極的に女子の労働生活に反対されました。平塚、山田の二女史はこれを「詩人の空想だ」という風にまでいわれました。詩人の空想というものが、そのように安価にかつ悪い意味にのみ用いることの出来ないものであり、現実と離れた空想というものもないこと位は「美学」の一冊でも読んだ人たちには自明の事だと思いますが、姑《しばら》く二女史の常識的発言のままに従って置くとして、私は茲《ここ》に三女史に対してお答えします。
私は決して気紛《まぐ》れな妄想から経済的独立の可能をいうのではありません。子思《しし》は「あるいは生れながらにこれを知り、あるいは学んでこれを知り、あるいは困《くるし》んでこれを知る」といいましたが、私は実に早くから困んでこれを知ったのです。私は四、五歳の時から貧しい家庭の苦痛を知り初め、十一、二歳より家計に関係して、使用人の多い家業の労働に服しながら、二十二、三歳までの間に、あらゆる辛苦と焦慮とを経験して、幾度か破綻《はたん》に瀕《ひん》した一家を、老年の父母に代り、外に学んでいる兄や妹にも知らせずに、とにもかくにも私一人の微力で、一家を維持し整理して来たのです。他人が中年になって経験する経済生活の試錬を私は娘時代において嘗《な》め尽しました。或人においては、一生涯かかって経験する苦労を、私は誇張でなく、全く娘時代の十年間に凌《しの》いで来たと思っています。次で結婚生活に入って後の私の経済生活というものも、引き続いて多難なものであるのですが、これを娘時代の苦労に比べると非常に安易な心持を覚えます。こうして、私は私自身の薄弱な力の許す限り周囲に打克《うちか》って、細々《ほそぼそ》ながら自己の経済的独立を建てて来ました。これは毫《ごう》も自負のつもりでなく、私がこういう実証の上に立っているということの説明にいうのです。
しかし個人の経験を以て一般を推論することが往々誤謬に陥るとすれば、私は一条忠衛さんが近く富山県の漁
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