に失望する。
そなたがやがて平凡な今日《けふ》に変り、
灰色をした昨日《きのふ》になつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣る好《よ》い香《にほひ》の餌《ゑさ》だ、
光に似た煙だと咀《のろ》ふことさへある。

けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
「明日《あす》よ、明日《あす》よ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の明日《あす》がある。
よしや、そなたが涙を、悔《くい》を、愛を、
名を、歓楽を、何《なに》を持つて来よう[#「よう」は底本では「やう」]とも、
そなたこそ今日《けふ》のわたしを引く力である。


    肖像

わが敬《けい》する画家よ、
願《ねがは》くは、我がために、
一枚の像を描《ゑが》きたまへ。

バツクには唯《た》だ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の脂色《やにいろ》を交ぜたまへ。

髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせず坐《すわ》りて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ無底《むてい》の淵《ふち》を覗《のぞ》く姿勢《かたち》。

目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅く緊《しま》りぬ、
未《いま》だ一《ひと》たびも言はず歌はざる其《そ》れの如《ごと》く。

わが敬《けい》する画家よ、
若《も》し此《この》像の女に、
明日《あす》と云《い》ふ日のありと知らば、
トワルの何《いづ》れかに黄金《きん》の目の光る一羽《いちは》の梟《ふくろふ》を添へ給《たま》へ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。

さて画家よ、彩料《さいれう》には
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落《はくらく》と褪色《たいしよく》とは
恐らく此《この》像の女の運命なるべければ。


    読後

晶子、ヅアラツストラを一日一夜《いちにちいちや》に読み終り、
その暁《あかつき》、ほつれし髪を掻《かき》上げて呟《つぶや》きぬ、
「辞《ことば》の過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の動悸《どうき》は羅《うすもの》を透《とほ》して慄《ふる》へ、
その全身の汗は産《さん》の夜《よ》の如《ごと》くなりき。

さて十日《とをか》経《へ》たり。
晶子は青ざめて胃弱の人の如《ごと》く、
この十日《とをか》、良人《をつと》と多く語らず、我子等《わがこら》を抱《いだ》かず。
晶子の幻《まぼろし》に見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。


    紅い夢

茜《あかね》と云《い》ふ草の葉を搾《しぼ》れば
臙脂《べに》はいつでも採《と》れるとばかり
わたしは今日《けふ》まで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な臙脂《べに》は採《と》れるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに真赤《まつか》な臙脂《べに》の採《と》れるのを。


    アウギユスト

アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳《いつつ》になるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは唯《た》だ
ほれぼれと其《そ》れを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、何《なん》にならう。
私はおまへに由《よ》つて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変《しんぺん》不思議を示し、
玲瓏《れいろう》円転として踊り廻る。


    産室《うぶや》の夜明《よあけ》

硝子《ガラス》の外《そと》のあけぼのは
青白《あおしろ》き繭《まゆ》のここち……
今|一《ひと》すぢ仄《ほの》かに
音せぬ枝珊瑚《えださんご》の光を引きて、
わが産室《うぶや》の壁を匍《は》ふものあり。
と見れば、嬉《うれ》し、
初冬《はつふゆ》のかよわなる
日の蝶《てふ》の出《い》づるなり。[#「なり。」は底本では「なり、」]

ここに在るは、
八《や》たび死より逃れて還《かへ》れる女――
青ざめし女われと、
生れて五日《いつか》目なる
我が藪椿《やぶつばき》の堅き蕾《つぼみ》なす娘エレンヌと
一瓶《いちびん》の薔薇《ばら》と、
さて初恋の如《ごと》く含羞《はにか》める
うす桃色の日の蝶《てふ》と……
静かに清清《すがすが》しき曙《あけぼの》かな。
尊《たふと》くなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の如《ごと》く
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日《はいにち》教徒の信の如《ごと》し、
わがさしのぶる諸手《もろで》を受けよ
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