さ》きとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は年頃《としごろ》恋をして
世の大方《おほかた》を後《のち》にしぬ。
かかる立場の止《や》み難《がた》し、
人に似ざれと、偏《かたよ》れど。
車の跡
ここで誰《たれ》の車が困つたか、
泥が二尺の口を開《あ》いて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度《みたび》四度《よたび》、人の滑《すべ》つた跡も見える。
其時《そのとき》、両脚《りやうあし》を槓杆《こうかん》とし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、自《みづか》ら励《はげ》む者は
折折《をりをり》、これだけの事にも
その二つと無い命を賭《か》ける。
繋縛
木は皆その自《みづか》らの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由な魂《たましひ》を持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ寝台《ねだい》に起き臥《ふ》しする。
帰途
わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしは其《そ》れを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしは其《そ》れを感じる。
玄関から御門《ごもん》までの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太い縞《しま》を作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた紫陽花《あぢさゐ》の重たい花束。
どこかで蝉《せみ》が一つ鳴く。
拍子木
風ふく夜《よ》なかに
夜《よ》まはりの拍子木《ひやうしぎ》の音、
唯《た》だ二片《ふたひら》の木なれど、
樫《かし》の木の堅くして、
年《とし》経《へ》つつ、
手ずれ、膏《あぶら》じみ、
心《しん》から重たく、
二つ触れては澄み入《い》り、
嚠喨《りうりやう》たる拍子木《ひやうしぎ》の音、
如何《いか》に夜《よ》まはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。
或夜《あるよ》
部屋ごとに点《つ》けよ、
百|燭《しよく》の光。
瓶《かめ》ごとに生《い》けよ、
ひなげしと薔薇《ばら》と。
慰むるためならず、
懲《こ》らしむるためなり。
ここに一人《ひとり》の女、
讃《ほ》むるを忘れ、
感謝を忘れ、
小《ちさ》き事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。
堀口大學さんの詩
三十を越えて未《いま》だ娶《めと》らぬ
詩人|大學《だいがく》先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
誰《た》が家《いへ》の女《むすめ》か放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。
岬
城《じやう》が島《しま》の
岬のはて、
笹《さゝ》しげり、
黄ばみて濡《ぬ》れ、
その下に赤き切※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]《きりぎし》、
近き汀《みぎは》は瑠璃《るり》、
沖はコバルト、
ここに来て暫《しば》し坐《すわ》れば
春のかぜ我にあつまる。
静浦
トンネルを又一つ出《い》でて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦《しづうら》の口の津。
わが敬《けい》する龍三郎《りゆうざぶらう》[#ルビの「りゆうざぶらう」は底本では「りうざぶらう」]の君、
幾度《いくたび》か此《この》水を描《か》き給《たま》へり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
磯《いそ》の路《みち》は観《み》つつ曲る、
猶《なほ》しばし歩《あゆ》まん。
牡丹
※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルサイユ宮《きゆう》[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]を過ぎしかど、
われは是《こ》れに勝《まさ》る花を見ざりき。
牡丹《ぼたん》よ、
葉は地中海の桔梗色《ききやういろ》と群青《ぐんじやう》とを盛り重ね、
花は印度《いんど》の太陽の赤光《しやくくわう》を懸けたり。
たとひ色相《しきさう》はすべて空《むな》しとも、
何《なに》か傷《いた》まん、
牡丹《ぼたん》を見つつある間《あひだ》は
豊麗|炎※[#「執/れっか」、11−上−10]《えんねつ》の夢に我の浸《ひた》れば。
弓
佳《よ》きかな、美《うつ》くしきかな、
矢を番《つが》へて、臂《ひぢ》張り、
引き絞りたる弓の形《かたち》。
射よ、射よ、子等《こら》よ、
鳥ならずして、射よ、
唯《た》だ彼《か》の空を。
的《まと》を思ふことなかれ、
子等《こら》と弓との共に作る
その形《かたち》こそいみじけれ、
唯《た》だ射よ、彼《か》の空を。
秋思
わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏《れいろう》として涼し。
目を上げて見れば
かの青空《あをそら》も我《わ》れなり、
その木立《こだち》も我《わ》れなり、
前なる狗子草《ゑのころぐさ》も
涙しとどに溜《た》めて
やがて泣ける我《わ》れなり。
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