行きます、
ぢつと見ると怖いので、
ただ一人めくらとなり。
どんな音が爆ぜようとも
ただ一人めくらとなり。
〔無題〕
ひよろ、ひよろとして
枯れてゐる木、
勿論、雑木のはしくれ、
それでも小鳥を遊ばせるに十分な
枯れてゐる木。
〔無題〕
一人の兵士が斃れた、
前から来た弾丸《たま》のために。
しかし、兵士自身は知つてゐる、
背嚢が重過ぎたのだ、
後ろの重味に斃れたのだ。
〔無題〕
太つて「空樽《あきだる》」と云はれる人、
はじめは可笑しく見えた、
次に見たら苦し相であつた、
それがまた今日逢つたら
紙製の軽さに見えた。
〔無題〕
均斉と云ふことが厭で
こんな隅に窓を開けました。
御覧、ここから見えるのは
山の脚ばかり
さうして低い所に野が少し。
〔無題〕
花粉ばかりなんですが、
余計な花片《はなびら》はないのですが、
わたしは顔を洗ふ水に
毎朝花粉を散らすのですが、
花粉ばかりなんですが。
〔無題〕
瓶《かめ》に生けた薔薇が
心の奥の薔薇と香り合ふ、
カアテンの隙から日が射してゐる、
心の奥にも射してゐる、
上上《じやう/\》の金と真紅の時。
〔無題〕
わたしの門前の泥、霜どけの、
これが東京まで続いてゐよう、
丸ビルの口で誰れかが靴を洗つてゐよう、
下級の新聞社員が
また自弁で円タクを飛ばすであらう。
〔無題〕
今、煙突掃除夫の手、
地獄の底を掻きまはした手、
やけ[#「やけ」に傍点]になりきつた手、
痛快を死に賭けて悔いない手、
その母が見たら泣きませう。
〔無題〕
さうでない、さうでないと
否定ばかりを続けて、
青年が老人になつて行く。
手を挙げよ、
誰れが新しい道を見つけたか。
〔無題〕
ところが、繋がつてゐるのです、
一つを切ると
一つが死ぬのです、
いや、皆が死ぬのです、
人間と草木とはちがひます。
〔無題〕
かきまはすと触れあつて
がりがりと音のする
幾塊かの氷片、
バケツの中の世界は
生中《なまなか》[#「生中」はママ]な暖気で政府を失つてゐる。
〔無題〕
困る、舁《か》く人がゐない、
葬式は出して欲しいのに。
困る、血のつづかぬ同志が
もう棺《くわん》の前でごたごただ。
死人が叫ぶ、聞えない。
紅顔の死
江湾鎮の西の方《かた》
かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、
折れ重なれる敵の死屍。
中に一きは哀しきは
学生隊の二百人。
十七八の若さなり、
二十歳《はたち》を出たる顔も無し。
彼等、やさしき母あらん、
その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき
許嫁《いひなづけ》さへあるならん。
彼等すこしく書を読めり、
世界の事も知りたらん。
国の和平を希《ねが》ひたる
孫中山《そんちゆうざん》の名も知らん。
誰れぞ、彼等を欺きて、
そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば
侮るべしと教へしは。
誰れぞ、彼等を唆《そその》かし、
筆を剣《つるぎ》に代へしめて、
若き命を、此春の
梅に先だち散らせるは。
十九路軍の総司令
蔡廷※[#「金+皆」、第4水準2−91−14]《さいていかい》の愚かさよ、
今日の中《うち》にも亡ぶべき
己れの軍を知らざりき。
江湾鎮の西の方
かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる
紅顔の子の二百人。
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(右、読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る。)
[#ここで字下げ終わり]
〔無題〕
白く塗つた椅子を一つ
芝の上に出したら、
それが白馬《はくば》になつて飛ばうとする。
お待ち、お待ち、天へ昇るのは。
まだ足らぬ、春風が。
〔無題〕
魯迅と郭沫若と、
胡適と周作人と、
彼等とわたしの間に
塹壕は無いのだけれど、
重砲が聾にしてしまふ。
日本国民 朝の歌
ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。
空疎の議論こゑを絶ち、
妥協、惰弱の夢破る。
正しき方《かた》に行くを知り、
百の苦難に突撃す。
身は一兵士、しかれども、
破壊筒をば抱く時は、
鉄条網に躍り入り、
実にその身を粉《こ》と成せり。
身は一少佐、しかれども、
敵のなさけに安んぜず、
花より清く身を散らし、
武士の名誉を生かせたり。
其等の人に限らんや、
同じ心の烈士たち、
わが皇軍の行く所、
北と南に奮ひ起つ。
わづかに是れは一《いつ》の例。
われら銃後の民もまた、
おのおの励む業《わざ》の為め、
自己の勇気を幾倍す。
武人にあらぬ国民も、
尖る心に血を流し、
命を断えず小刻みに
国に尽すは変り無し。
たとへば我れの此歌も、
破壊筒をば抱きながら
鉄条網にわしり寄り
投ぐる心に通へかし。
無力の女われさへも
かくの如くに思ふなり。
況《いはん》やすべて秀でたる
父祖の美風を継げる民。
ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。
日本新女性の歌
東の国に美くしく
天の恵める海と山、
比べよ、其れに適はしき
我等日本の女子あるを。
中にも特にすぐれたる
瀬戸の内海《うちうみ》、富士の雪、
その優しさと気高さは
やがて我等の理想なり。
我等は抱《いだ》く、朗らかに
常に夜明の喜びを。
心の奥に光るもの
春の日に似る愛なれば。
日本の女子は誇らねど、
深く恃《たの》める力あり。
軽佻浮華の外《ほか》に立ち、
真の文化に生きんとす。
技術と学の一切を
今ぞおのおの身に修む。
斯くして立つは新しき
御代の男子の協力者。
聡明にして優雅なり、
慎ましくして勇気あり。
匂へる処女《をとめ》、清き妻、
智慧と慈悲とを満たす母。
固より女子の働くは
遠き祖先の遺風なり。
男子と同じ務めにも
共に奮ひて進み出づ。
桜と梅のひと重、八重、
開く姿は異なれど、
御国《みくに》のうへに美くしく
すべて香れる人の華。
寿詞
蘇峰先生古稀
大地の上に降《くだ》り来て
文章星《ぶんしやうせい》の在《いま》すかな。
三代《みよ》の帝と国民《くにたみ》に
報ゆる心澄み徹る
時代の先駆、蘇峰先生。
想は明健まどかにて、
筆は暢達はなやげり。
常に四方《しはう》を警《いまし》めて
仮りの一語も生気あり。
天下の恩師、蘇峰先生。
当世《たうせ》の韓蘇《かんそ》、大史公《たいしこう》、
奇しき力を身に兼ねて、
七十路《ななそぢ》経たる来し方も
千歳《ちとせ》の業《わざ》を立てましぬ。
老いざる巨人、蘇峰先生。
寿をたてまつる、先生よ、
とこしへ若くおはしませ。
豊かに高きその史筆
明治の篇を結びませ。
燦たる光、蘇峰先生。
〔無題〕
銀座であつたと、人の噂、
それはもうベルが鳴らない前の事。
浮動層のあなたに、
併し猶、映写幕に消えぬ
新居格先生のプロフイル。
衣通姫
(今井鑷子女の新舞踊のために作る。)
今宵のこころ躍るかな、
君来たまふや、来まさぬや、
隔てて住めば藤原も、
近江国にことならず。
あやしく躍る心かな、
何がつらきか、此世には、
思ひあへども逢はぬこと、
逢はれぬことに如《し》くぞ無き。
心うれしく躍るなり、
身に余りたる我が恋は
君知らしめせ、忍びかね、
衣《きぬ》を通して光るとも。
こころぞ躍る、この夕、
君来たまはんしるしなり、
蜘蛛は軒より一すぢの、
長き糸こそ垂れにけれ。
森の新秋
今日の森は涼し、
わたり行く風の音
はらはらと旗を振る。
濃いお納戸《なんど》の空、
上の山より斜めに
遠き地平にまで晴れたり。
まろく白き雲ひとつ
帆の如くに浮び出で、
その空も海に似る。
森の木は皆高し、
ぶな、黒樺、稀れに赤松、
樹脂の香《か》の爽かさ。
太陽は近き幹をすべり、
我が凭る椅子の脚にも
手を伸べて金《きん》を塗る。
かのぶな[#「ぶな」に傍点]の枝に巣あり、
何の小鳥ぞ、胸は朱、
鳴かずして二羽帰る。
紅萩、みじかき茅、
りんだうの紫の花、
猶濡れたれば行かじ。
我れは屋前の椅子に、
読みさせる書をまた開く。
秋は今日森に満つ。
〔無題〕
蒋介石に手紙を出したが、
届いたと云ふことを聞かぬ。
聞違つてゐた、
わたしは唐韻の詩で書いた、
商用華語を知らないので。
〔無題〕
煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。
〔無題〕
切腹しかけた判官が
由良之介を待つてゐる。
由良之介が駆けつける。
シネマを見馴れた少年は
お医者と間違へる。
[#改ページ]
昭和八年
冬晴
今日もよい冬晴《とうせい》、
硝子障子にさし入るのは
今、午前十時の日光、
おまけに暖炉《ストオヴ》の火が
適度に空内を温《あたた》めてゐる。
わたしは平和な気分で坐る。
今日一日外へ出ずに済むことが
なんとわたしを落ち著かせることか。
でも為事《しごと》が山を成してゐる、
せめてこの二十分を楽まう。
硝子越しに見る庭の木、
みな落葉した裸の木、
うす桃色に少し硬く光つて、
幹にも小枝までにも
その片面が日光を受けてゐる。
こんな日に何を書かう、
論じるなんて醜いことだ。
他に求める心があるからだ。
自然は求めてゐない、
その有るが儘に任せてゐる。
わたしは此のひまに歌はう、
冬至梅《とうじばい》に三四点の紅《べに》が見える、
白い椿も咲きはじめた、
花の頬と香りの声で
冬の日にも自然は歌つてゐる。
裸の木の上には青空、
それがまろく野のはてにまで
お納戸いろを垂れてゐる。
二階へ上がつたら
富士もまつ白に光つてゐよう。
風が少しある、
感じやすい竹が挨拶をしてゐる。
あたたかい室内で
硝子ごしに見ると、
その風も春風のなごやかさである。
苛酷な冬の自然にも
こんな平和な一日がある。
師走の忙しさは嵐の中のやうだ、
それは人間のこと、
自然は今、息を入れて休んでゐる。
霧氷
富士山の上の霧氷、
それを写真で見て喜んでゐる。
美くしいことは解る、
それがどんな[#「どんな」に傍点]に寒い世界の消息かは
登山者以外には解らない。
あなたにわたしの歌が解りますつて、
さうでせうか、さうでせうか。
来客
彼れは感歎家にして慷慨家、
形容詞ばかりで生きてゐる。
また他の一人の彼れは計画家、
建築の経験を持たない製図師。
忙しい師走の半ばに
二人のお相手は出来ない、
わたしは失礼して為事をする。
お客同志でゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]とお話し下さい。
暖炉
灯をつけない深夜の室に、
燃え残つたストオヴが深紅に光る。
ストオヴは黙つてゐる。
それを自分の心臓だと見るわたしは
炭をつぎ[#「つぎ」に傍点]足さうかと思ふ。
いや、誰れが手を温《ぬく》める火でもない、
独り此の寂しい深紅を守らう。
或人に
わたしには問はないで下さい、
「あなたの心の故郷《ふるさと》は」なんて
クリスチヤンじみたことを。
誰れが故郷を持つてゐると云ふのです。
みんな漂泊者である日に、
みんな新世界を探してゐる日に、
過去から離れて、みんな
蒙昧を開拓しようとしてゐる日に。
それよりも見せて下さい、
あなたに鶴嘴を上げる力があるか、
一尺の灌漑用の水でも
あなたの足元の沙から出るか。
〔無題〕
ちび筆に線を引きて
半紙に木瓜の枝を写生し、
赤インクにて花を描《か》く。
末の娘、見て笑ふ、
母の木瓜には刺無し。
〔無題〕
同じ免官者でも
急に言葉が荒くなり、
知事や将校は便衣隊に見える。
校長たちの気の毒さ、
番茶で棋を打つてゐる。
屋上
武蔵野の中、
日の入りて後《のち》
屋上の台に昇る。
わが座は今
わが庭の
最も高き梢と並ぶ。
風、かの白き天の川より降るか、
我れを斜めに吹きて
余勢、
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