一。

百てふ数は豊かなり、
倉に満ちたる穀のごと、
これの冊子の来し方の、
足らへることの証なり。

一は万《よろづ》の始めとて、
春立つ朝の空のごと、
これの冊子の更にまた、
新たに開く世界なり。

ああ見よ、此処に、まばゆくも、
聡く、気高く、うるはしき、
久遠の女、人のため、
行くべき方《かた》を指さしぬ。


  母の歌

ふたおやの愛の心は
等しくて差別なけれど、
その愛の姿のうへに
おのづから母ぞ異る。

女にて母とならずば
如何ばかり淋しからまし。
女なる身の幸ひは
母となり初めて知りぬ。

生むことは聖なるわざぞ、
母ひとり之をなすのみ。
神の子と云はるる人も
母の血を浴びて生れき。

男らは軍《いくさ》に出でて
人斬りし道なき世にも、
をさな児に乳房を与へ、
かき抱《いだ》き歌ひしは母。

母なくば人は絶えけん、
母ありて、人の生命《いのち》は
つぎつぎに新たになりぬ、
美くしくやさしくなりぬ。

今の世も男ごころは
おしなべて荒く硬かり。
正しきに導くものは
母ならで誰か能《よ》くせん。

願はくは母の名に由り、
地の上の人を浄めん、
富む者の欲を制せん、
戦ひを全《また》くとどめん。
[#改ページ]

 大正十五年


  〔無題〕

或日、わがこころは
うす墨色の桜、
また別の日、わが心は
紅き一ひらの罌粟《けし》の花、
時は短し、欲多し。


  〔無題〕

あなた、石が泣いて居ます、
石が泣くのを御覧なさいまし。
あの朴の木の下の二つ目の石、
光を半分|斜《はす》に受けて
上を向いて、
渋面をして泣いて居ます。
こんな山の中で、静かな中で、
だまつて泣いて居ます。


  〔無題〕

黄味がかつた白い睡蓮、
この花を見ると、
直ぐ私の目に浮ぶのは
倫敦《ロンドン》のキウ・ガーデンの池、
仏蘭西《フランス》風と全くちがつた
自然らしい公園の奥の池、
あなたと私とは立止まり、
さて其処に見た、
羅衣《うすもの》に肌身の光る
静かなる浴女の一群《ひとむれ》。
[#改ページ]

 昭和二年


  正月に牡丹咲く

今年ここに第一の春、
元日の卓の上に、
まろまろと白き牡丹
力満ちて開かんとす。

金属も火も知らぬ、
かよわき中の強さ、
よき人の稀に持つ
素顔の気高さ。

この喜びにいざ取らん
わが好む細き細き穂長の筆。
牡丹とわが心と今
共にほと気息《いき》をつく。


  〔無題〕

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙|未《いま》だ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下《もと》に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語。
   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。
世は変る、変る、
偏すること無く変る、
愛と正義の中に変る。
   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外《うちと》に。
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処《いづこ》ぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
世界は如何に動くべき、
国民《くにたみ》は何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子《せきし》、
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心《みこゝろ》に集まる。
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて被《おほ》ひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界を容《い》るるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生《せいせい》として常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします。
   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労《いそし》む者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
怠《たゆ》みつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
逸《そ》れつるは本に復《かへ》れ。
他《ひと》の国には他《ひと》の振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来《きた》る、
夜《よ》は明けんとす、東《ひんがし》に。
   ×
我等が行くべき方《かた》は
陛下今指さし給ふ。
止《や》めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。
[#改ページ]

 昭和三年


  〔無題〕

障害物を越ゆる
騎馬の人の写真より、
我目は青磁の皿なる
レモンの黄に移り行き、
ふと、次の間《ま》の
鳩の時計の呼ぶに、
やがて心は
碓氷の峰の頂《いただき》
冬枯の落葉松《からまつ》に眺め入り、
浅間より浮び来る
白き雲に乗りつつ、
高く高く遊ぶ。


  〔無題〕

飛べ、けはしきを、風の空、
吹け、はげしきを、火の喇叭《らつぱ》、
摘め、かをれるを、赤い薔薇、
漕げ、逆巻《さかま》くを、千波万波、
君が愛、音楽、詩の力。
[#改ページ]

 昭和四年


  小鳥の巣

見上げたる高き木間《このま》に
胸ひかる小鳥のつがひ、
もろともに啣《くは》へて帰る
一すぢの細き藁屑、

まめやかに、いぢらしきかな、
日のあたる南に向きて、
こもりたる青葉の蔭に、
巣を作る頬白《ほほじろ》のわざ。

春の日は若き雌《め》と雄《を》と
花の木に枝うつりして、
霜と雨、風をも凌ぎ、
歌ひけん、岡より岡へ。

初夏の小鳥のこころ
今は唯だ生むを楽み、
雛のため、高き木間に
巣を作る頬白のわざ。


  旅中

小蒸汽の艫《とも》、
ここに立ちて
後ろを見れば、
過ぎ去る、
過ぎ去る、
逃げるやうに過ぎ去る
わたしの小蒸汽。

後ろに長く引くのは、
板硝子のやうな航跡、
その両側に
船底から食《は》み出した浪が
糊を附けて硬《こは》ばつた
藍色の布の
襞と皺とを盛り上げる。

ぱつと白く、
そのなかに、遠ざかる
港の桟橋を隠して、
レエスの網を跳ね上げる飛沫《しぶき》。
また突然に沢山のS《エス》の字が
言葉のやうに呟いて
やがて消えゆく泡。

陸から、人から、
貧乏から、筆から、
わたしの平生から、
ああ、かうして離れるのは好い。
過ぎ去る、
過ぎ去る、
わたしの小蒸汽。


  瞼

まぶたよ、
何と云ふ自在な鎧窓だ。
おかげで、わたしは
じつと内を観る。
唯だ気の毒なのは、折々
涙の雨で濡れることである。
[#改ページ]

 昭和五年


  少女子《をとめご》の花
    (卒業生を送る歌)

教へ子のわが少女《をとめ》たち、
この花をいざ受けたまへ。
君たちのめでたき門出、
よき此日、うれしき此日、

そのはじめ皆をさなくて
ほの紅き蕾と見しも、
いつしかとわが少女たち
この花にいとこそ似たれ。

似たまふは姿のみかは、
うるはしく匂へる色は
やがて其の豊かに開く
新しきみこころの花。

教へ子のわが少女たち、
この花をいざ受けたまへ。
この花にその自《みづか》らの
幸ひを眺めたまへよ。

いとよくも修めたまひき。
つつましく優しきなさけ。
明るくも敏きその智慧
創造の妙《たへ》なる力。

君たちの行手の道は
ほがらかに春の日照らん。
荒き風よしや吹くとも、
少女子の花はとこしへ。

かく云へど、永き年月《としつき》
相馴れし親のこころに、
別れをば惜む涙の
つと流る、如何にとどめん。

いざさらば我が少女たち、
この花のごとくにいませ
若やかに光りていませ
この花をいざ受けたまへ。


  鵞鳥の坊や

ねんねんよ、ねんねんよ、
雨が降るからねんねんよ、
鳥舎《とりや》の鵞鳥もねんねした。

ねんねんよ、ねんねんよ、
鵞鳥の坊やのおめざには、
ちいしやの葉《は》つ葉《ぱ》を摘んでやろ。

ねんねんよ、ねんねんよ、
内《ううち》の坊やのおめざには、
ああかいお日様上げませう。

ねんねんよ、ねんねんよ、
梅雨《つうゆ》のおあめも寝ておくれ、
いゝ子の坊やはねんねした。
[#改ページ]

 昭和六年


  〔無題〕

思ひあまれど猶しばし
云はで堪《こら》へるたのしさよ、
如何にすぐれた歌とても
書いてしまへば旧くなる。
すべて当世《たうせ》のあやまちは
要らぬ言葉の多きなり。


  〔無題〕

寒山は詩を作り、
拾得は釜を焚く。
それで昔は暮された。
ああ一千九百三十年、
わたくしはまた随筆を売る。


  秋の夜の歌

時計を見れば十一時、
秋の夜長の嬉しさよ、
筆さしおきて、また更に
己《おの》が時ぞと胸をどる。

立ちつつ棚の本を抽《ぬ》く。

夜更けて物を読むことは、
田を刈る人が手を止《や》めて
しばらく空を見るよりも
更に澄み入る心なれ。

一のペイヂをそつと切る。

今夜新たに読む本は
未知の世界の旅ぞかし。
初めの程は著者とわれ
少し離れて行くも好《よ》し。

敬ふごとく次を切る。

唯だ打黙《うちもだ》し読むことを
もどかしとする虫ならん、
我れに代りて爽かに
前の廊より声立てぬ。

電灯のいろ水に似る。


  鈴虫

りん、りん、りんと鈴虫の声、
わが背《せな》の方《かた》に起る。
思ひがけぬ虫の声よ、
小暗き廊をつたひて
わが筆執る書斎に入るなり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
げに其声は鈴を振る。
駄馬の鈴ならず、
橇の鈴ならず、
法師の祈る鈴ならず。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
朗朗として澄み昇る。
聴けば唯だ三節《みふし》なれど、
すべてみな金《きん》の韻なり、
盛唐の詩の韻なり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
その声は喜びに溢る。
促されずして歌ひ、
堪へきれずして歌ひ、
恍惚の絶巓《ぜつてん》に歌ふ。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
なんぞ傍若無人なる。
寸にも足らぬ虫なれど、
今彼れの心に
唯だ歌ありて一切を忘る。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
彼の虫ぞ自らを恃める。
人間の心には気兼あり、
疚《やま》しき所あり、
諂《へつら》ふことさへもあり。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
誰れか今宵その籠を掛けたる。
わが子らの中の
いづれの子のわざならん、
かの※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに掛けたるは。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
猶かの※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダより起る。
すでに午前一時、
その硝子には白からん、
栴檀の葉を通す十五夜の月。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
月の光の如く流る。
虫よ知るや、其処の椅子に、
詩人木下杢太郎博士
十日前に来て掛け給ひしを。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
更けていよいよ冴え渡る。
また知るや虫よ、其の※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダは
火曜日ごとに若き女達きて
我れと共に歌ふ所なるを。

りん、りん、りんと鈴虫の声、
書斎に入りて我れを繞る。
我れは猶筆を捨てず、
よきかな、我が思ひと我が言葉
今は鈴虫の韻に乗る。


  庭の一隅

同じ囲ひのうちに
鶏のむれ、鵞鳥のむれ、
すでに食み終りて
猶も餌を待てり。
餌の無きにあらず、
彼等の目の見難きなり。
見よ、同じ囲ひのうちに
雀の下《お》りて食めるを。
猶よく見よ、餌を運ぶ蟻は
今正に収穫の農繁期なり。
[#改ページ]

 昭和七年


  〔無題〕

飢ゑたひよ鳥も食べぬ
にがい、にがい枳殻《からたち》の実、
飢饉地の子供が其れを食べる。
わたしの今日此頃の心も
人知れず枳殻の実を食べる。


  〔無題〕

唯一つ、空《そら》に
さし出した手は寂しい。
しかし、待て、
皆が、皆が、一斉に
手を伸ばす日は来ぬか。


  〔無題〕

わたしは
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