元旦の歌

やれ、春が来た、ほんのりと
日のさす中に、街々の
並木二側、梅ねずみ。

やれ、春が来た、この朝の
空は藤色、日本晴
下に並木の梅ねずみ。

やれ、春が来た、金の目が
どの窓からもさし覗く
そして並木の梅ねずみ。


  春の初めに

春の初めに打て、打て、鼓。
打てば小唄に、やれ、この、さあ、
四方《よも》の海さへ音《ね》を挙げる。

春の初めに振れ、振れ、袂。
振れば姿に、やれ、この、さあ、
天つ日さへも靡き寄る。

春の初めに舞へ、舞へ、舞を。
舞へば情に、やれ、この、さあ、
野山の花も目を開く。

春の初めに飲め、飲め、酒を。
飲めば笑らぎに、やれ、この、さあ、
福の神さへ踊り出す。


  夜の色

うれしきものは、春の宵、
人と火影《ほかげ》の美くしい
銀座通を行くこころ。
それにも増して嬉しきは、
夜更けて帰る濠ばたの
柳の靄の水浅葱《みづあさぎ》。


  一九一八年よ

暗い、血なまぐさい世界に
まばゆい、聖い夜明が近づく。
おお、そなたである、
一千九百十八年よ、
わたしが全身を投げ掛けながら
ある限りの熱情と期待を捧げて
この諸手をさし伸べるのは。

そなたは、――絶大の救世主よ――
世界の方向を
幾十万年目に
今はじめて一転させ、
人を野獣から救ひ出して、
我等が直立して歩む所以《ゆゑん》の使命を
今やうやく覚らしめる。

そなたの齎《もたら》すものは
太陽よりも、春よりも、
花よりも、――おお人道主義の年よ――
白金《はくきん》の愛と黄金《わうごん》の叡智である。
狂暴な現在の戦争を
世界の悪の最後とするものは
必定、そなたである。

わたしは三たび
そなたに礼拝を捧げる。
人間の善の歴史は
そなたの手から書かれるであらう、
なぜなら、――ああ恵まれたる年よ、――
過去の路は暗く塞がり、
唯だ、そなたの前のみ輝いて居る。


  見ずや君

「見ずや君よ」と書きてまし、
ひと木盛りの紅梅を。
否、否、庭の春ならで、
猶も蕾のこの胸を。


  〔無題〕

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
妬ましきまで、若やかに
力こもりて笑む花よ、
人の持つより熱き血を
自然の胸に得し花か。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この花を見て、傷ましき、
はた恨めしき思出の
何一つだに無きことも
先づこそ我に嬉しけれ。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
人よ、来て訪《と》へ、この日頃。
我等が交す言の葉に
燃ゆる命の有り無しは
花に比べて知りぬべし。

うすくれなゐの薔薇さきぬ、
この美くしく清らなる、
この尊げに匂ひたる、
花の証のある限り、
愛よ、そなたを我れ頼む。


  〔無題〕

おお、薔薇よ、
ゆたかにも、
うす紅く、
あまき香《か》の、
肉感の薔薇よ、
今日、そなたは
すべて唇なり。

花ごとに、
盛り上り、
血に燃えて、
かすかに戦《わなゝ》く
熱情の薔薇よ、
一切を吸ひ尽す
愛の唇よ。

その唇の上に、
太陽も、人も、
そよかぜも、
蜜蜂も、
身を投げて寄り伏し、
酔ひと夢の中に、
焼けて咽ぶ。

おお、五月の
名誉なる薔薇よ、
香ぐはしき刹那に
永久を烙印し、
万物の命を保証する
火の唇よ、
真実の唇よ。


  〔無題〕

薔薇よ、如何なれば
休むひま無く香るや。
花は、微風《そよかぜ》に托して
之に答へぬ。
「我は自らを愛す、
されば思ふ、
妙香の中に生きんと。
たとひ香ることは
身一つに過ぎずとも、
世界は先づ
我よりぞ浄まる。」


  〔無題〕

薔薇の花打つ、あな憎し、
煤色の雨、砂の風。
薔薇は青みぬ、うつ伏しぬ、
砕けて白く散るもあり。

之を見るとき、花よりも
苛《さいな》まるるは我が心。
堪へ難ければ、傘とりて、
花の上にぞさしかざす。


  〔無題〕

淡黄《うすき》と、白と、肉色と、
三輪の薔薇、わが手より
和蘭《オランダ》焼の花瓶《はながめ》に
移さんとして躊躇《ため》らひぬ、
またと得難き宝玉の
身をば離るる心地して。

瓶に移せる薔薇の花、
さて今は是れ、一|人《にん》の
私に見る花ならず、
我背子も愛で、友も愛で、
美くしきかな、安きかな、
見る人々の為に咲く。


  〔無題〕

衰へて、濡れたる紙の如く、
瓶の端に撓《たわ》める薄黄の薔薇、
されど、しばし我は棄てじ。
花は仄かに猶|呼吸《いき》づきぬ、
あはれ、こは、臨終《いまは》の女詩人の如く、
香る、美くしき言葉も断続《きれぎれ》に……


  〔無題〕

わが運命の贈りもの、
恋と歌とに足る身には
薔薇を並べた日が続く、
真珠を並べた日が続く。

かよわき身には、有り余る、
幸《さち》も重荷となるものを、
思ひやりなき運命よ
情《なさけ》の過ぎた運命よ。

多くの幸《さち》が贖罪を
終《つひ》に求める日は来ぬか、
風が木《こ》の葉を剥ぐやうに
裸に帰る日は来ぬか。


  〔無題〕

このアカシヤの木《こ》のもとを
わが今日踏みて思ふこと
甘き怖えに似たるかな。
かかる木蔭にそのむかし、
逢はで止まれぬ初恋の
人を待ちたる思ひ出か、
はた、此処に来て、はるばると
見渡す池の秋の水
濃き紫の身に沁むか。


  〔無題〕

夜《よる》は美くし、安し、
人を脅かす太陽は隠れて、
星ある空は親しげに垂れ下り、
地は紫の気に満つ。

神秘と薄明の中《うち》に我等を据ゑて、
微風《そよかぜ》のもと、
夜は花の香《か》に濡れたる
その髪を振り乱す。

夜は美くし、安し、
今こそ小き我等も
一つの恋と一つの歌をもて
無限の世界に融け入るなれ。


  〔無題〕

大輪の向日葵《ひまはり》を斫らんとして、
ぢつと見れば、
太陽の娘なる花の明るさ、
軽き眩暈《めまひ》に身はたじろぐ。
斫りし大輪の向日葵を採れば
花粉はこぼれて身に満つ、
おお、金色《こんじき》の火の屑……
君よ、我は焼かれんとするなり。


  〔無題〕

我は俄に筆を擱《お》きぬ、
我が書き行く文字の上に、
スフインクスの意地悪るき片頬《かたほ》の
ちらと覗く、それを見つれば。


  〔無題〕

吝《やぶさ》かなれば言ひ遣りぬ、
永久の糧を送れと。

わが思ひつる如くにも
かの人は返事せず。

さて、ひと日過ぎ、二日《ふたひ》過ぎ、
何故《なにゆゑ》か、我は淋しき。

われは今みづから思ふ、
まことに恋に飢ゑつと。


  〔無題〕

灰となれば淋しや、
薔薇を焼きしも、
榾《ほだ》を焼きしも、
みな一色《ひといろ》に薄白し。
されば、我は
薔薇に執せず、
榾に著せず、
唯だ求む、火となることを。


  〔無題〕

悒欝の日がつづく、
わが思ひは暗し。
わが肩を圧《お》すは
重き錯誤の時。
身は醒めながら
悪夢の中に痩せて行く。


  〔無題〕

月の出前の暗《やみ》にさへ
マニラ煙草《たばこ》の香《か》を嗅げば、
牡丹の花が前に咲き、
孔雀の鳥が舞ひ下《くだ》る。
まして、輪を描《か》く水色の
それの煙を眺むれば、
黄金《きん》のうすぎぬ軽々と
舞うて空ゆく身が見える。


  我家

崖の上にも街、
崖の下にも街、
尺蠖虫《しやくとりむし》の如く
その間を這ふ細き小路《こうぢ》は
坑道よりも薄暗し。

我家《わがいへ》は小路に沿ひて、
更に一段低き窪にあり。
門を覗きて斜めに
人も、我も
横穴の悒欝を思ふ。

門と玄関との間、
両側に立つ痩せし樫の幹は
土中より出でし骨の如くに黒み、
その灰色する疎らなる枝は
鉛の静脈を空に張れり。

我家は佝僂病者《くるびやうしや》なり、
その内部は暗く屈みて
常に太陽を見ず、
陰湿の空気壁に沁みて
菊の香《か》の如く苦《にが》し。

さもあらばあれ、我は愛す、
我家の傷ましく淋しきを。
精舎と行者との如く、
同じ忍辱の中に
人と家とは黙し合ふ。

さて、我家にも、
二階の障子に
朝の日の射す片時あり、
見給へこの稀なる
我家の桃色の笑顔を。


  永き別れ

発車前三分……
我は更に戦きて
汽車の窓に歩み寄る。
発車前三分……
中なる人も
湿《うる》みたる目に見下ろし、
痙攣《ひきつ》る如く手を伸べぬ。

いかで、我等に残るこの束の間、
猶吸はばや、君が心を、
君が※[#「執/れっか」、10巻−377−下−7]を、君が香《か》を。
発車前三分
はた、わが命のため、
捉へて我目に留めばや、
君が顔を、君が姿を。

狂ほしくなれる我は
君が手の上に
はげしき接吻《くちづけ》を押して、
思はず、きと噛みぬ。
おゝ、今、基督《クリスト》の其れの如く、
わが脈管を伝ひて拡がるは
君が聖なる血の一滴……

汽笛は空気を裂く。
時なり、汽車は動き、
二度と来らぬ旅人の
君は遠く去り行く……
さはれ匂はしき記憶よ、
証《あか》せかし、常に猶、
我が衷《うち》に君の在るを。
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 大正八年


  朝晴雪

ひと夜《よ》明くれば時は春、
おお、めでたくも晴れやかに
天は紺青、地の上は
淡紫と薔薇色を
明るく混ぜた銀の雪、
強き弱きの差別なく
世の争ひを和らげて
まんまろと積む春の雪、
平等の雪、愛の雪。
此処へ東の地平から
黄金《こがね》の色に波打つは、
身を躍らして駈け上《のぼ》る
若い初日の額髪。


  朝晴雪

おお、此処に、
躍りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
時は朝、
地は雪の原。

急ぐ女の一むれ、
青白き雪の上を
真一文字に北へ向き、
風に逆ふ髪は
後ろに靡きて
大馬の鬣《たてがみ》の如く、
折からの日光を受けて
金色《こんじき》に染まりぬ。

高く前に張れる両手は
確かに掴まんとする
理想の憧れに慄へて
槍の穂の如くに輝き、
優しの素足に
さくさくと雪を蹴りつつ、
甲斐甲斐しくも穿きたるは
希臘《ギリシヤ》風の草鞋《サンダル》……

さて桔梗色や
淡紅《とき》色の
明るき衣《ころも》
霧よりも軽《かろ》く
膝を越えて
つつましやかに靡けば、
女達の身は半
浮ぶとぞ見ゆる。

この美くしき行列は
断えず歌へり。
その節は
かすかに軽《かろ》き
快き眩暈《めまひ》の中に
人と万物を誘ひ、
人には平和を、
木草には花を感ぜしむ。

女達は歌ひつつ行く。
「全世界を恋人とし、
いとし子として、
この温かき胸に抱《いだ》かん。
我等は愛の故郷《ふるさと》――
かの太陽より来りぬ」と。

おお、此処に、
踊りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
女達の踏む所に
紅水晶の色の香水
光の如くに降り注ぎ、
雪の上に一すぢ
春の路は虹の如く
ほのぼのとして現れぬ。


  手の上の氷

日の堪へ難く暑きまゝ
しばらく筆をさし置きて、
我れは氷のかたまりを
載せて遊びぬ、手のひらに。

貧しき家の我子等は
未だ見ざりしその母の
この戯れを怪しみて、
我が前にしも集まりぬ。

可愛ゆき子等よ、こは母が
珍しきまゝする事ぞ、
唯だ気紛れにする事ぞ、
いはれも無くてする事ぞ。

かゝる果敢なきすさびすら
母が昔の家にては
許されずして育ちにき、
唯だ頑なに護られて。

可愛ゆき子等よ、摸《ま》ねたくば
いざ氷をば手に載せよ。
さて年長けて後《のち》思へ、
母は自由を愛でにきと。


  我は矛盾の女なり

我れは矛盾の女なり、
また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
我れを知らんとする人は
先づ此事を知り給へ。

祖国を二なく愛でながら、
世界の人と生きんとし、
濫婚国に住みながら、
一つの恋を尊びぬ。
我れは矛盾の女なり。

また恐らくは、魂に
病を持てる女なり。
貧しき事を詫びながら、
貴人に似たる歌を詠み、
人の笑む日に泣くなれば。


  母の文

虫干の日に見出でしは
早く世に亡き母の文、
中風《ちゆうぶ》の手もて書きたれば
乱れて半ば読み難し。

わが三度目の産月《うみづき》を
案じ給へる情《なさけ》もて
すべて満たせる文ぞとは
薄墨ながらいと著《しる》し。

このおん文の着きし日に
我れは産をば終りしが、
二日の後に、俄にも
母は世に亡くなり給ひ、

産屋籠りの我がために

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