、呼び起すとて、
線香花火、青なると、
うす紫と、くれなゐと、
ばらばらばつと焚き給ふ君。
○
何方《いづかた》に向きて長ぜむ。
かく人は眉をひそめぬ。
わが心今日も昨日も夢のみを見る。
○
われは思ひき、毒婦ならまし。
ある宵にかたへ聞きせる
不幸なる運命の
性《しやう》を変へむと、十五より。
○
ひとびとが憚らず、
声放ち歌ふ時、
君は知れりや、悲しみよりも、
悦びは少しみにくし。
[#改ページ]
大正二年
巴里雑詠
巴里《パリイ》の宿の朝寝髪、
しろい象牙の細櫛で
梳けばほろほろ、あさましく
昨日も今日も落ちること。
君に見せじと、物かげに
隠れて梳けば、わが額《ぬか》の
鏡にうつる青白さ。
身のすくむまでうら悲し。
巴里の街の橡《とち》の葉は
はや八月に散りかかる。
わたしの髪もこの国の
慣れぬ夜風に吹かれたか。
いいえ、それとも、憎らしく、
しろい象牙の細櫛が
鑢となりて擦り切るか。
恋を貪るこらしめに。
または悲しい人の世の
命の秋の入口に、
わたしも早く著きながら、
真夏の花をまだ嗅ぐか。
梳けばほろほろ、堪《こら》へかね、
昨日の恋が、今日の血が、
明日《あした》の夢が泣きじやくる。
からんだ髪を琴にして。
心ひとつは若々と、
かをる油に打浸り、
死なぬ焔を立つれども、
ああ灰のよに髪が散る。
秋の朝《あした》
卓の上から二三輪
だりあの花の反りかへる
赤と金とのヂグザグが
針を並べた触をして、
きゆつと瞳を刺し通し、
朝のこころを慄はせる。
見返る角《かく》な鏡にも
赤と金とのヂグザグが
花の酒杯《クウプ》を尖らせて、
今日の命を吸へと云ふ。
それに書斎の片隅の
積んだ書物の間から、
夜の名残をただよはす
蔭に沈んで、寒さうに、
痩せた死人の頬を見せる
青いさびしい白菊が、
薬局で嗅ぐ風のよに
苦いかをりを立てるのは
まだ覚め切らぬ来し方の
わたしの夢の影であろ。
[#改ページ]
大正三年
ひるまへ
てれ、れん、れんと鳴り出した。
つて、れん、れんと鳴り出した。
それは傴僂《せむし》のマンドリン、
昼まへに来るマンドリン
歌もうたやるマンドリン。
窓の硝子《がらす》に寄つたれば、
白いレエスの冷たさよ。
お城の壁に紅葉《もみぢ》した、
蔦の葉のよな襟かざり。
上を見上げる襟かざり。
ちり、りん、りんと一《アン》スウの
小《ちさ》い銅貨が敷石の
上で立てたる走り泣き。
初めのお客は誰れであろ、
わたしも投げてやりませう。
今朝の夜明の四時過ぎに、
誰れかとしたる喧嘩から、
ずつと泣いてたお隣の、
夫人《マダム》の顔をちよいと見た。
向うもわたしをちよいと見た。
思はず髪を引き入れた、
白い四階の窓口へ、
(巴里《パリー》は今日も薄曇り)
湿つた金薄《はく》[#「金薄」はママ]を撒くやうに、
アカシヤの葉が散りかかる。
ノオトル・ダアム
ああ巴里《パリー》の大寺院ノオトル・ダアムよ、
年経しカテドラルの姿は
いと厳かに、古けれど、
その鐘楼の鐘こそは
万代に腐らぬ金銅の質を有《も》ちて、
混沌の蔓の最先《いやさき》にわななく
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
爽かに清《す》める、
劇しき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈に注しながら、
「時」の血を火の如く逸ませ、
洪水《おほみづ》の如く跳らせ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休む間なく進ましむ。
その響につれて
塔の上より降《くだ》る鳥の群あり、
人は恐らく、そを
森の梢より風に散る
秋の木《こ》の葉と見ん。
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふサン・ミツセルの橋に立ちつつ、
端なく我胸に砕け入る
黄金《きん》の太陽の片と見て戦《をのの》けり。
その刹那、わが目に映る巴里《パリー》の明るさ、
否《いな》、全宇宙の明るさ。
そは目眩《めくる》めく光明遍照の大海《おほうみ》にして、
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、
我も人も
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。
覇王樹[#「覇王樹」は底本では「覊王樹」]と戦争
シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。
ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。
シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
刺《はり》の陣をば張つて居る。
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。
ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。
それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。
晩秋
S《エス》の字がたの二人《ふたり》椅子《いす》、
背中あはせのいやな椅子、
これにあなたと掛けたなら、
この気に入つた和蘭陀《オランダ》が
唯だの一夜《ひとよ》で厭になろ、
その思出もうとましい。
ギヤルソン外[#「外」はママ]にいい部屋は無いの。
[#地より8字上げ](アムステルダムの一夜)
[#改ページ]
大正四年
温室
広き庭の片隅に
物古りたる温室あり、
そこ、かしこ、硝子《ガラス》に亀裂《ひび》入り、
塵と蜘蛛の糸に埋れぬ。
棚の上の鉢の花は皆
何をも分かず枯れたれど、
一鉢の麝香撫子のみ
はかなげに花|小《ちさ》く咲きぬ。
去年《こぞ》までは花皆が
おのが香と温気とに
呼吸《いき》ぐるしきまでに酔ひつゝ、
額《ぬか》重く汗ばみしを、
今、温室は荒れたり、
何処《いづこ》よりか入りけん、
憎げなる虻一つ
昼の光に唸るのみ。
〔無題〕
今夜|巴里《パリー》は泣いて居る。
シヤン・ゼリゼエの植込も、
セエヌの水もしつとりと
青い狭霧に街灯の
涙を垂れて泣いて居る。
〔無題〕
群をはなれて※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに
君ただひとり立つなかれ、
今宵は空の月さへも
人の踊を覗けるに。
いざ君、室内《うち》の卓に凭り、
ワルツの曲を聞きながら、
夜《よ》ひと夜《よ》取れよ、花の香《か》と、
香料の香と、さかづきと、
女の燃ゆるまなざしと、
きやしやに艶《いろ》めく肉づきと、
軽き笑まひと、足取と、
さらに渦巻く愛と美と。
[#改ページ]
大正五年
〔無題〕
せよ、怖い顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の宝である
唯一の劒を大事にせよ。
せよ、賢相《かしこさう》な顔を、
せよ、みんなでせよ。
そしておまへ達の護符である
てんかこくかを口にせよ。
おまへ達は決して笑はない。
おまへ達の望んで居る
日独同盟の成る日が来るとも、
どうして神聖サムラヒ族の顔が崩れよう。
おまへ達は科学主義の甲《よろひ》を着て、
血のシンボルの旗の下《もと》に、
おまへ達の祖先である
南洋食人族の遺訓を行はうとする。
世界人類の愛に憧れる
われわれ無力の馬鹿者どもは
みんなおまへ達に殺されねばなるまい、
おまへ達が初めて笑ふ日のために。
併し……
春より夏へ
八重の桜の盛りより
つつじ、芍薬、藤、牡丹、
春と夏との入りかはる
このひと時のめでたさよ。
街ゆく人も、田の人も、
工場《こうば》の窓を仰ぐ身も、
今めづらしく驚くは
隈《くま》なく晴れし瑠璃《るり》の空。
独《ひとり》立つ木も、打むれて
幹を出す木も枝毎に
友禅染の袖を掛け、
花と若芽と香り合ふ。
忙《せは》しき蝶の往来《ゆきき》にも
抑へかねたる誇りあり、
ただ一粒の砂さへも
光と熱に汗ばみぬ。
まして情《なさけ》に生くる人、
恋はもとより、年頃の
恨める中も睦み合ひ、
このひと時に若返る。
ああ、またありや、人の世に
之に比ぶる好《よ》き時の。
いでや短き讃歌《ほめうた》も
金泥をもてわれ書かん。
西部利亜所見
汽車は吼ゆ。
されどシベリヤの
雪と氷の原を行く汽車は
胴体こそ巨大の象のやうなれ、
この怪獣は石炭の餌《ゑ》を与へられず、
薪のみを食らへば、
吼ゆる声の力無く、
のろのろと膝行《ゐざ》りゆく。
露西亜文字《ろしあもじ》を読み得ざれば、
今停まれるは何と云ふ駅か知らず。
荒野《あらの》の中の小き停車場《ステイシヨン》に
人の乗降《のりおり》も無く、
落葉したる白楊の木
其処此処に聳えて、
灰色の低き空の下《もと》
五月の風猶雪を散らせり。
汽笛の叫びに引かれて、
男、女、子供、
すべて靴を穿かぬ
シベリヤの農民等は
手に手に、大《おほい》なる雁を、
鶏を、牛乳を捧げて、
汽車の窓に馳せ寄り、
かしましく買へと云ひぬ。
〔無題〕
わたしの庭の高い木に
秋が琴をば掛けにきた。
翡翠を柱《ぢ》とし、銀線を
絃《いと》にすげたる黄金《きん》の琴。
風は勝れた弾手にて、
人の心の奥にある
弧独の夢をゆり起し、
木《こ》の葉と共に泣かしめる。
〔無題〕
うす紫と、淡紅色《ときいろ》と、
白と、萠黄と、海老色と、
夢の境で見るやうな
はかない色がゆらゆらと
わたしの前で入りまじる。
女だてらに酔ひどれて、
月の明りにしどけなく
乱れて踊る一むれか。
わたしの窓の硝子《がらす》ごし
風が吹く、吹く、コスモスを。
炉の前
かたへの壁の炉の火ゆゑ
友の面輪も、肩先も、
後ろの椅子も、手の書《ふみ》も、
濃き桃色にほほゑみぬ。
部屋の四隅の小暗くて、
中に一もと寒牡丹
われと並びて咲くと見る
友の姿のあてやかさ。
春にひとしき炉の火ゆゑ
友も我身も、しばらくは
花の木蔭を行く如く
こゝろごころに思ひ入る。
楽しき由を云はんとし、
伏せし瞳を揚ぐる時
友も俄かに手を解きて
我手の上にさし延べぬ。
[#改ページ]
大正六年
〔無題〕
わが前の丘に
断えず歌ふは
桃色に湧き上る噴水。
青白き三人の童子は
まるまると肥えし肩に
緑玉の水盤を支へたり。
われは、その桃色の水の
猛火に変るを待ちながら、
ぢつと今日も見まもる。
元旦の歌
初春はきぬ、初春は
新たに焚ける壁の炉よ、
誰もこの朝うきうきと
身をくつろげて打向ふ。
初春はきぬ、初春は
誰の顔にも花にほひ、
誰の胸にも鳥うたひ、
誰の口にも韻の鳴る。
初春はきぬ、初春は
愛の笑まへる広場なり
雄雄しき人も恋人も
踊らんとして手を繋ぐ。
我傍らに咲く花は
わが傍らに咲く花は
傷より滴《た》るゝ血の如し、
この花を見てかなしげに
思ひたまふや何ごとを。
嵐のあとに猶しばし
海の入日の泣くことか、
さては三十路《みそぢ》の更け行けど
飽くこと知らぬわが恋か。
[#改ページ]
大正七年
冬の一夜
おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、
いつぱいに口を開《あ》いて、
わたしを吸はうとする。
二階の欄干《てすり》に手を掛けながら
わたしの全身は慄へあがる。
屋外《そと》はよく晴れた、冴えた、
高々とした月夜。
コバルトと、白と、
墨とから成つた、素朴な、
さうして森厳な月夜。
月は何処にある。
見えない、見えない、
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。
きつと、氷と、されかうべと、
銀の髪とを聯想させる月であらう。
軍医学校の建物はすべて尖り、
軒と軒との間にある空間は
遠くまで運河のやうに光つて居る。
近い一本の電柱は
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。
あの鈍い真鍮色の四角な光は
崖上の家の書斎の窓の灯火《あかり》。
今、わたしの心に浮ぶのは、
その窓の中に沈思して、恐らく、
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。
ああ世界はしんとして居る。
冬だ、冬だ、
空気は真白く、
天は玲瓏として透きとほり、
月は死霊《しりやう》のやうに通つて行く。
かさ、こそと、低く、
何処かにかすれた一つの物おと……
枝を離れる最後の落葉か、
わたしの心の秘密《ないしよ》の吐息か、
それとも霜であらうか。
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