り疲れて床に入つたが、寝つかれぬ。
いつも点けて置く瓦斯の火を起きて消せば、
部屋中の魔性の「闇」ははたと音《ね》をひそめ、
みるみる大きく成つて行く黒猫の柔かな手触りで
わたしの友染の掻巻の上を軽く圧へ、
また、涙に濡れた大きな黒目がちの
人を引く目の優形《やさがた》の二十三四の女と変つて
片隅に白い右の手を頤《あご》にしたまま寄りかかり、
天井の同じ方ばかり待ち人のあるよな気分で見上げる。
(それはわたしの影であろ。)
部屋中の静かなことは石炭の庫《くら》の如く、
何処からとなく障子の破れを通す霜夜の風は
長い吹矢の管《くだ》をわたしの髪にそおつとさし向ける。
わたしはますます寝つかれぬ。
閉ぢても、閉ぢても目は円く開き、
横向に一人じつとして身ゆるぎもせぬ体は
慄毛《おぞけ》だつ寒さと汗に蒸される熱さとの中で烹られる。
わたしは風邪を引いたらしい。
それとも何かに生血を吸はして寝てるのか。
時計は二時を打つ。
〔無題〕
東京のお客さんは皆さうお云ひやはる。
「京の秋は早よ寒い」と。
そないに寒がつておいでやしたら、あんたはん、
嵐山の紅葉《もみぢ》は見られやしまへんえ。
紅葉の盛りは十一月の中頃、
なんの寒いことがおすかいな。
大井川の時雨によいお客さんと屋形船に乗つて、
紅葉を見ながら、わたしら揃うて鼓を打つのどつせ。
姉はん、さうどすえなあ。
と云ひました。一人の舞妓が、
わたしの好きな、優しい京の言葉で。
[#改ページ]
明治四十五年
〔無題〕
跣足《はだし》で歩いた粗樸な代《よ》の人が
石笛を恋の合図に吹くよな雲雀《ひばり》。
九段《くだん》の阪を上《のぼ》るとて
鳥屋の軒で啼く雲雀、それを聞けば、
わたしの二人の子を預けて置く
玉川在の瑠璃色の空で啼いて雲雀が
薄くらがりの麦畑《むぎばた》で
村のわんぱくに捕られたのぢや無《ない》か。
雛から鳥屋で育つた雲雀と知《しり》ながら、
五町すぎ、七町すぎ、
うちの門まで気に掛る雲雀。
〔無題〕
善しと人の褒むる物事の裏に
偽と慢心と嫉妬と潜む。
そは醜き不純の光なり
我は身を投げてあらゆる罪悪と悔恨と耻辱とに抱かまし、
その隠れて徐徐にあらはるるものほど、
遠空の星の永久に輝く如く、
純金の錆びず、金剛石の透きとほる如く、
いつ見ても活活として美くしく好ましきかな
あだし人のそを罵るも正直に罵るなれば亦美くし。
〔無題〕
彩色硝子の高き窓を半ひらき、
引きしぼりたる印度更紗の窓紗の下に
下町の煙突の煤煙を見下しつつ、
小やかな軽き朝飯のあとに若き貴女の弾くピヤノの一曲、
東京の二月の空は曇れども、
若き貴女の心に緑さす
明るき若葉の夏の色、恋の色生の色。
〔無題〕
たそがれに似るうす明り、
二月の庭の木を透きて、
赤むらさきのびろうどの
異国模様に触れるとき。
たそがれに似るうす明り、
赤むらさきのびろうどの
窓掛に凭《もた》るわが肌を
夢となりつゝ繞《めぐ》るとき。
たそがれに似るうす明り、
朝湯あがりの身を斜《はす》に、
軽く項を抱きかゝへ、
つく/″\人の恋しさよ。
〔無題〕
昨日も今日も啼き渋る
若い気だてのうぐひす。
一こゑ渋るも恋のため、
二こゑ渋るも…………
おゝ、わたしに似たうぐひす。
〔無題〕
東京の正月の或日、
うれしくも恋しき人の手紙着けり。
「今わが船の行くは北緯一度の海、
白金《プラチナ》色の月死せる如く頭の真上に懸り、
甲板に立てる人皆|陰影《かげ》を曳かず。」
「印度洋の一千九百十一年
十二月二日の日の出の珍しさよ、美くしさよ。
輝紅《ピンク》の濡れ色に
鮮かな橄欖青を混へし珍しさよ、美くしさよ。」
「二十の旋風器《フアン》は廻れども、
食堂のあひも変らぬむし暑さ。
今宵も青玉色《エメラルド》の長い裾を曳く
英吉利西婦人のミセス、ロオズが
人の目を惹く話しぶり。
それに流れ渡りの一人もの
素性の知れぬ諾威人が気を取られ、
果物マンゴスチインを下手に割れば
指もナフキンも紅く染む。」
かかることを数多書きて、
若やかに跳れる旅人の心うらやまし。
寒きかな、寒きかな、東京は
霙となりて今日も暮れゆく。
〔無題〕
旅順の港に
堅い防波堤を築くなら、
せつかく凍らぬ港でも
潮が動かないで凍りませう。
君とわたしもそのとほり、
夫婦の頑固な築石《つきいし》とならずに
いつまでも恋する仲で居ませうよ。
たとへば沖つ浪きらく気ままに遊ぶやうに。
〔無題〕
正月元日、
鏡餅の傍に寒牡丹一つ開き、
子供等みな健やかに、
良人《をつと》の留守|護《も》る我家は清し。
東京よりも寒しと云ふ巴里の正月は如何に。
歳の暮君は其処に着き給ひしならん、
君の旅にかずかずの幸あれと
家を挙げて祝ふ清き正月元日。
〔無題〕
真赤な花のいく盛《さか》り。
透きとほつたる真紅から、
うす紫を少し帯び、
さてはほんのり上白《うはじろ》み、
また物恨むしつこさの
黒味に移るいく盛り。
君よ棄てゆくこと勿れ、
真赤な花は泣いてゐる。
[#改ページ]
大正元年
〔無題〕
虻のうなりか、わが髪に
触れて呼吸《いき》つくそよ風か、
遠い木魂か、噴上か、
をりをり斯んな声がする。
「君もわたしも出来るだけ
物の中身を吸ひませう。
今日のよろこび、行くすゑの
夢のかぎりを尽しませう。」
〔無題〕
うすく紅《べに》さす百合の花、
ひと花づつを、朝ごとに、
咲けば、どうやら、わが頼む
よい幸福《しあはせ》はまのあたり。
うすく紅さす百合の花、
ひと花づつを、朝ごとに、
散らせば、あたら、わが夢も、
しばし香りて消えて行く。
うすく紅さす百合の花、
よし、幸福《しあはせ》でないとても、
また、かりそめの夢とても、
わたしは花をじつと嗅ぐ。
〔無題〕
若い娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
わたしの無垢な日送りに
さびしい友であつた花。
今日までわたしを慰めた
やさしい花のかずかずに、
別れを述べる時が来た。
花の神様、いざさらば。
わたしは愛の神様に
手をば執られて参りましよ。」
若い娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
弥生に代る初夏の、
青い海から吹いて来る
五月の風に似た男、
若い、やさしい、あたたかな、
生々としたあの男、
すべての花に打勝つて、
その目にわたしを引附けた。
男の中の花男。」
若[#「若」は底本では「花」]い娘の言ふことに、
「別れを述べる時が来た。
美くしい花、にほふ花。
おお、その上に、よい声で、
いつもわたしを呼び慣れた
赤い小鳥よ、そなたにも、
別れを述べる時が来た。
どれどれ籠から放しましよ。
済まないながら、今日からは、
燃えた、やさしいくちびるの外に聞きたい声もない。」
〔無題〕
若い娘の言ふことに、
「雲雀よ、雲雀、
そなたは空で誰を喚ぶ。
――それは何《ど》うでもよいわいな。
わたしは君の名をば喚ぶ。
昼は百たび、
夜《よる》は二百たび。」
若い娘の言ふことに、
「あれ、あの青い
空であらうか、君の名は。
――それに違ひがないわいな。
ひとり小声で喚ぶたびに、
沈んだ心も、
しんぞ高くなる。」
若い娘の言ふことに、
「また、あの燃える
お日様である、君が名は。
――さうではないと誰が言はう。
わたしの心を眩暈《めまひ》させ、
熱い吐息を
投げぬ間もない。」
若い娘の言ふことに、
「ああ、君が名を
喚ぶと云うても口の中《うち》。
――それを何うして君が知ろ。
自分の喚んで聴くばかり。
雲雀よ、雲雀、
音《ね》の高い雲雀。」
〔無題〕
わたしの上を掠めて通らぬ雲ならば、
勝手に曇れ、
勝手に渦巻け、
わたしの足もとの遠い雲。
憎悪《ねたみ》の風に、
愚痴のしぶき雨、
嘲りの霞をまじへた、
低い、低い、通り雲。
わたしの上には、水色の
ひろい空、日輪の金《きん》の点。
けれど、なんだか気に掛る。
あれ、あの地平線に見えるのは、
不安な、黒い雲の羽。
それとも、わたしに二度帰る
空飛ぶ馬の持つ羽か。
けれど、なんだか気に掛る。
〔無題〕
かかる文書くべき人と、
かの人の思ひ当る名、
もつが憎くけれ、いかにしてまし。
○
をりふしに美くしき
いみじきすごき稲妻おこる
陰陽のあるらむ、わが一つなる心にも。
○
紅《くれなゐ》の血ながして、
みな死ぬべきを閉ぢこめぬ。
チヤアルス王の、倫敦塔に似る心かな。
○
寒さをも、熱をも知らず、
ある人に云ふ如きこと、聞くは厭、
横恋慕などうち明けよかし。
○
おほよそは、そのむかし、
二十ばかりの若き日に、
過ちて入りたる門をわが家とする。
○
わが心、尼院の中に、尼達に、
かくまはれあればすべなし。
思ふとも、思はるるとも、全《また》くすべなし。
○
かの人が七人の子を見に帰れば、
かの人に、
老は俄におそひいたりぬ。
○
自らがちかひけるやう。
檀那様と生き、
檀那様と死に、
檀那様の知らぬまに、
唯ひとつ、何かしてまし。
○
別れて憂愁に居ぬ。
はねらるるとも、くれなゐに、
血のとばじな。あぢきなの身。
○
得たるもの忽にして擲つは
財宝すらもここちよし
まして、まして、何と云はむ。
○
大空の雪のごと、浮きたる心と、
流れの浄き心と
はらからなるをわれのみぞ知る。
○
いつの日か、いかなる時か、
しのびてわれに恩売りし、
美くしき見覚え人よ。
○
目に見たる津津浦浦よ、
わが上を、語らむ時にまさりたる、
おもむきなきをいかにしてまし。
○
うれしくも、幸と云ふものよりも、
好むところを語らせし、
夜の涙よ。拭ひ筆おく。
○
わが心唯ひとたびなりきと云ふ
何を云ふぞよ。かこつのかや。
恋を男を。
○
水色の船室に月さし入り、
隣なる、大僧正の飼犬が、
夜寒げに絶えずうめける。
○
老の魔がしのびより、鉛をかけぬ。
心に、あらずまづ面わに、髪に、
かなしきかなや三十路。
○
男来て導かむと思ひつるかな。
美くしくとも、醜くとも、
そはわれの若ければ、
あなものうし。かかる思ひ出。
○
別るるもよしや、うれしかりけり。
口づけを束にして、
環になしてもちかへること。
○
うつし世の渦巻の中、
と云ふにあらねども、なけれども、
する息のむづかし。落す涙も。
〔無題〕
おのれをば殺せと云はむ、
誰に云はむや
十余年添ひたる人か、
いたりあの笛吹の子か。
○
男より退きて
地か空か知らず、走せ過ぎる。
驚くべきを見顕《みあら》はさずに。
○
安らかに眠らむとして帰り来つるや
否々夢を、悪夢をば、
見むとぞ呼ぶ。やがて死ぬらむ。
○
恋をする時、死なむとする時
無くもがなの賢き頭《つむり》よ
烏羽玉の髪覆ひぬれども。
○
かかる夕に思ふこと、
少しことなるものながら、
哲学と浮きたる恋と何《いづ》れよからむ。
○
ひそかにも火の燃ゆる口われのみぞ知る
遠方《をちかた》に居てかの山を見む。
○
続けざまに杯あげて酔ひ給へ。
いとほしの君、
みじめなる君、
わが思ふ君。
○
ここちよきものならまし。
悪の醒むるも善よりするも、
わが目きはめてさはやかならば。
○
むかしとは若き日のこと、
昔にもまさり恋はると、
云ふことが、心より、
うれしきや、よろこぶや。
○
灰色の壁による人。
みづいろの玻璃《はり》の板による。
金色《こんじき》の雲による。
自《みづか》らは男によれる。
○
檀那をば彼は忘れず、
肩すぎてブロンドの髪ゆらめきし、
わざをぎ男目に消えぬごと。
○
手さぐりに人心よぢてゆく、
女の恋のはかなかりけれ。
かの時より死の友となりけれ。
○
眠りたる心をば
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