うるはしきすがたを見れば、
せきあへず涙わしりぬ、
しら玉は常ににほひて
ほこりかに世にもあるかな。

人のなかなるしら玉の
をとめ心は、わりなくも、
ひとりの君に染みてより、
命みじかき、いともろき
よろこびにしもまかせはてぬる。


  冥府のくら戸は

よみのくら戸はひらかれて
恋びとよよといだきよれ、
かの天《あめ》に住む八百星《やほぼし》は
かたみに目路《めぢ》をなげかはせ、
土にかくれし石屑は
皆よりあひて玉と凝れ、
わが胸こがす恋の息
今つく熱きひと息に。


  ほそまゆ
   (絶句九章)
[#ここから行の折り返しの字下げなし]
つづみうち扇とりては、みづいろの袖ふる京の人形を、おもしとわびぬ。円山や、雪見る家をたづねきて、扶けおろすと同車の人の。

よしのがは、下市《しもいち》ゆくと橋こえず、かなたはるかに上市《かみいち》の、川ぞひ家並《やなみ》絵とかすむ、車峠の大坂や、車にちりぬ、山ざくら花。

いかだしは歌うてくだる川ぎしの、濃花《こばな》つつじとしら藤と、山吹わけて阿伽くむに、よべ夢みたる黒髪を、うつさぬ水のただにうらめし。

うつくしき君が御歌を画といはば、このみますなる御画題の、われのすがたは舞すがた、ふり袖きせて花櫛を添へたまふこそ今はをかしき。

髪すけば、君すむかたの山あをくわれに笑む日か、さくらさく君があたりの朝の雲、きて春雨とわが髪に油のごとくそそぐらむ日か。

われぞ病む、愛憎度なきおん神のしもべとなのるわかうどの、祝詞《のりと》か咒詛か、ほそごゑのふしをかしきを戸にききて、うしろ姿を見たるものゆゑ。

ききたまへ、扇に似たる前髪にふさふとあへて云ふならば、われは后《きさい》のおん料の牡丹もきらむ、おほきみの花もぬすまむ。食まじ、木《こ》の果《み》は。

細眉や、こき前髪や、まろき頬や、姉によう似る我なれば、春ひねもすを小机の、はしに肘して人おもふ御病《みやまひ》さへも得つと申さむ。

おん髪はむすばず結はず、土に曳き尋《ひろ》する藤を挿してゆけ、かぐろの髪と紫と大路に浪をなさむ時、みやこをとめはさうぐるひ、千人《ちたり》にわけて与へよと、おん跡おはむそのなかに、われもまじりて西鶴の経師《きやうじ》が妻のふりに似る、よき人得よと祝ぎて帰らむ。
[#ここで行の折り返しの字下げなし終わり]
[#改ページ]

 明治四十年


  親の家

目にこそ浮べ、ふるさとの
堺の街の角の家、
帳塲づくゑと、水いろの
電気のほや[#「ほや」に傍点]のかがやきと、
店のあちこち積み箱の
かげに居睡る二三人。

この時黒き暖簾《のれん》より
衣ずれもせぬ忍び足
かいま見すなる中の間《ま》の
なでしこ色の帯のぬし、
あな、うら若きわが影は
そとのみ消えて奥寄《あうよ》りぬ。

ほとつく息はいと苦し、
はたいと※[#「執/れっか」、9巻−326−下−4]し、さはいへど
ふた親いますわが家を
捨てむとすなる前の宵
しづかに更くる刻刻の
時計の音ぞ凍りたる。

一番頭と父母と
茶ばなしするを安しと見、
こなたの隅にわが影は、
親を捨つると恋すると
繁き思《おもひ》をする我を
あはれと歎き涙しぬ。

よよとし泣けば鈴《べる》鳴りぬ、
電話の室のくらがりに
つとわが影は馳せ入りて
茶の間を見つつ受話器とる。
すてむとすなるふるさとの
和泉なまりの聞きをさめ。

人の声とは聞きしかど、
ただわがための忘れぬ日
楽しき日のみ作るとて、
なにの用とも誰ぞとも
知らず終りき。明日の日は
長久《とは》に帰らぬ親の家。
[#改ページ]

 明治四十一年


  赤とんぼ

酒屋の庫《くら》のうら通り、
二間《にけん》にたらぬ細通り、
向ひの側の屋根火の見
釣半鐘やものほしの
曲《ゆが》みてうつる影の上、
二間ばかりを初秋の
日はしら壁につぶと照る。

ゆききとだえし細通り、
少女《をとめ》二人は学校の
おやつ下りを帰りきぬ。
十四と十二髪さげし
その幼きはわれなりき。
一人の髪は今しらず。

評判者のいぢわるの
しげをの君は隣の子、
五町ばかりのゆきかへり
つれだつことを悲みぬ。
この日は何か先生に
しげをの君はしかられて
腹立泣《はらだちなき》に泣きしあと。

しげをの君はもの云はず、
何を云ひてもいらへせず、
いとおそろしき化《ばけ》ものと
肩ならべゆくここちして
われは死ぬべく思ほえぬ。
酒屋の庫のうら通り。

庫の下なる焼板に
あまたとまれる赤とんぼ
しげをの君の肩にきぬ。
一つと思ふにまた一つ
帯にとまりぬ、また一つ
裾にもとまる、赤とんぼ。

つと足とめて、あなをかし
とんぼの衣《きぬ》とわれ云ひぬ。
とんぼの衣とその人も
はじめてものを云ふものか。
酒屋の庫のうら通り、
初秋の日は黄に照りき。
[#改ページ]

 明治四十二年


  宿屋

八番の客人《まらうど》の室《ま》に
行き給へ、われに用なき
君なりと、いとあらゝかに
云ふめるは、この朝日屋の
中二階赤ら顔なる
宿ぬしの住ふ部屋より
もるゝ声、腹立ちの声。

小田原の小住《こすみ》と云ひし
宿の妻、夕方ときし
洗ひ髪しづくのたるを
いとへれば椽にたゝずみ
大嶋の灯など見るらし。
水いろの絽の染裕衣《そめゆかた》[#「裕衣」はママ]
繻子《しゆす》の帯風に吹かるゝ。

いまだなほ去《い》にをらずやと
蚊帳《かや》の人云ふのゝしれど、
もの云はず蚊うつ団扇の
はた/\と音するばかり。
若い衆《しゆ》の風呂仕まひする
唄の声何を云ひしか
この女闇にほゝ笑む。


  産の床

甘睡《うまゐ》せる我が枕辺に
音も無く物ぞ来れる。
静かなる胸を叩きて
傍らに寄り添ふけはひ。
見開きて見る目に映る
影ならず、黄色の衣
まばゆくも匂へるを着て
物は今足のまはりを
往来《ゆきゝ》しぬ。あさましき物
見じとして心ふたげば
物は消ゆ。嬉しと思ひ
目ひらけば又この度は
緋のころも袖うち振て
魔ぞ立てる。黄色の物と
緋の物とこもごも見えつ。
且つ見れば彼方《かなた》向く時
黄色にて、こなたの袖は
赤なりき。物がうち振る
袖の間《ま》にしら鳥の雛
その如き真白き影の
ふと見えぬ。黄色の袖と
緋の袖とやがて消し時
残りしはしら鳥の雛。
わが悩み早も残らず、
子よ、汝《なれ》を生みし夕の
うら若き母のまぼろし。


  〔無題〕

しろがねの噴上の水に
仄かなる紫陽花《あぢさゐ》色の日影ちりぼふ。
あはれまた目にこそ浮べ、
若かりしわが盛り。


  〔無題〕

君知るや、若き男よ、
日は晴れて静かなる海のかなしさ。
あはれまた君知るや、
三十路《みそぢ》を越えしをみなにも
涙しづかに流るゝを。


  〔無題〕

夏のゆふべのおもしろさ。
夏のゆふべとなりぬれば
をみなの身こそうれしけれ。
湯槽《ゆぶね》を出でて端ぢかき
鏡の前にうづくまり
うすく我が刷く白粉《おしろい》の
いとよきかをり身に染《し》むよ。
帷子《かたびら》を着て団扇とり
二階の屋根の物干に
街の灯を見るおもしろさ。


  〔無題〕

誰か知る、をみなの城を。
われはここにぞ立て籠る。
来り攻めよ、わがおほぎみ、
わが親、わが夫《せ》、わがはらから、
あはれ最後の戦ひに
われは瘋癲病院の
冷き城に立て籠る。


  〔無題〕

庭つ鳥くだかけも能《よ》くすなる
みにくき事す。
ただそれのみ。
あはれ言ひ解くすべも無しや。
麗しき、麗しき歌はあれども。


  〔無題〕

われは歩める。うなだれて
そそ走り、また、たもとほり。
さざら波うち寄する白き渚を。
ああ今は男に作るわが媚も懶《ものう》きよ。
あはれ其の男の笑みも醜かり。
唯白き、白き渚のつづくまで
われは歩まめ。


  〔無題〕

家もたぬ身は羨し、
新しき家、空色の
四階の家のうらやまし。
都大路は馬、くるま、
人のゆききに塵あがり
笑ひ罵りわめくこゑ
恐しきまで覚ゆるを、
四階の家はおほどかに
街の上より見下ろしぬ。
家もたぬ身もなぐさむは
新しき家、そらいろの
四階の家を仰ぐ時。


  〔無題〕

ひさかたの空色の家、
さき草の三葉四葉に殿作り
日かげにほへる此家は、
あはれ此家は誰が為にある。
新しき大御代の為、国人の為。
[#改ページ]

 明治四十三年


  〔無題〕

しちめんだうな主《しゆ》の宿を
忘れて二人囃しごと、
ひやろ、ひやろ、と囃しごと。
お気に入らずはお主様
お叱りなされと囃しごと。


  ないしよごと

わたしキュラソオの酒を飲んだ事があつてよ、
四年ほど前の事なのよ。
こんな事云ツたツて
なんにも不思議では無いでせう。
けれどね、
今まで飲んだ事の無い様な顔をして居た事ね。

紫苑の花がひよろひよろと咲いてゐてね。
隣で蓄音器がしよつちゆう泣いてゐた
あの松井さんの柏木のお宅《うち》ね、
あすこのお座敷の隅にあツた本棚、
そら、扇のやうな形のね、
あの下から三つ目に有ツたわ、
キュラソオの罎が
罌粟《けし》の花を生けた白い水注《みづさし》と並んでね。

わたしはね、
日本の女が飲むもんじや無いと思ツてたの、
きつい、きついお酒だと思ツてね。
或日わたしは又|良人《うち》に叱られたの。
それで悲しくツてね、
ぶるぶると慄へながら行ツたの。あのお宅《うち》へね。
すると、婆あやさんもゐました。
わたしは婆あやさんに「又叱られてよ」と云ひました。

松井さんがね、
「奥さん、キュラソオでもお上んなさいツ」と仰《おつ》しやるの。
中が水色でね、
外が牡丹色でね、
金のふくりんのね、
やツぱし日本の酒盃《さかづき》なのよ。

たツた一つ丈わたしは飲みました。
ちツとも辛く無いの。
辛いとばかし思ツてたものがね、
甘かツたから
今日まで誰にも話が出来なかつたの。


  お俊傳兵衞

俊子《としこ》ツてえのはね、
お嫁に来てからの名なの、
真実《ほんたう》はお俊《しゆん》と云ふ名なの、
いい名でせう。

小説家が来てね、
女主人公《ひろいん》の名をつけてくれつてね、
私に云つたの。
あの傑作の「煙」ですよ。

その時私はね、
唯かう云つたの、
私の真実《ほんたう》の名はおしゆんです。
いい名でせうツて。

「煙」の女主人公《ひろいん》はね、
用吉の相手はね、
おしゆんぢやなかツた、
ねえ、おしゆんぢやないのよ。

だツて好《い》いのよ、
「煙」におしゆんが出ないからツて、
用吉の相手にならないだツて、
好いのですとも。

鳥部山を知ツていらしツて。
男肌には白無垢や、
上に紫藤の紋ツてね。
傳兵衞はいいわねえ、
用吉はいけないわねえ。
[#改ページ]

 明治四十四年


  〔無題〕

来て寝やしやんせ、三本木。
前の河原に脊の高い、
青い蓬のあひだから、
ちよ、ちよ、ろ、ちよ、ちよ、ろと水が鳴る。

来て寝やしやんせ、三本木。
知恩院の鐘がどんよりと
曇る月夜に鳴る晩は
前の河にも花が散る。

来て寝やしやんせ、三本木。
祇園の夢を見残して
ひとり千鳥を聞く夜さは
しんぞ恋路が悲しかろ。

来て寝やしやんせ、三本木。
あの鳴る鐘は黒谷の
松に涼しい明《あけ》の鐘。
お目が覚めたぢやないかいな。


  〔無題〕

朝顔の花の朝咲いて
まだ午前《ひるまへ》にしぼむとも、
わたしの知つたことで無い。
あなたの恋が尽きたとて、
わたしが何んで泣きませう。
わたしの泣くのはいつも一人で。


  〔無題〕

唯だ「人」と、若しくは「我」とのみ名乗るぞよき。
雑多の形容詞を附け足さんとするは誰ぞ。
大と云ひ、小と云ひ、善と云ひ、悪と云ひ……
そは事を好む子供の所為《わざ》なり。
何物をも附け足さぬはやがて一切を備へし故なるを。


  〔無題〕

行くほどに街は暮れて明るき月夜の海となり、
人は魚の如く跳り、ともし火は波の如く泡立つ。
地に落つる人影にわが影の入りまじる如く、
われは他の遊ぶを遊ぶ。
われは知る。つひに一人なり。


  風邪

十月八日の夜の十二時すぎ、
三人の男女《なんによ》の客を帰したあと、

前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング