がらん[#「がらん」に傍点]としたる空《くう》のなか、
前に尾を振る白い犬、
これを眺めてもう七日《なぬか》。
   ×
裾野の路に、たくたくと、
二町はなれた森にまで
秋にひびかす靴のおと。
わたしは森の端に出で、
呼びたけれども、旅の人。
   ×
秋の日ざしに照り透り、
蔦の紅葉《もみぢ》がさつと散る。
どれも身軽な紅い鳥。
今日は深山《みやま》の崖となる、
見上げる壁に一しきり。
   ×
既に云ひ得ず、今の史家、
未来の史家も誤らう、
時を隔てて何知らう。
真の批判が世にあるか、
自負する人は寒からう。
   ×
ハンドバツクを持つ振も
みなが凜凜しく、大事らし、
そして鋪道を西ひがし。
霜に曇つたこの朝も
職ある娘はいそぎ足。
   ×
霜ふらぬ間《ま》に園の薔薇、
乏しけれども秋の薔薇、
純情の薔薇、夢の薔薇、
これを摘まずば寂しかろ、
べにと薄黄に香る薔薇。
   ×
泣かずともよい高い木も、
露が置くとて泣いてゐる、
霜が降るとて泣いてゐる。
泣くのが無理か、真昼にも
蔭に日を見ぬ草の蔓。
   ×
どこをどう[#「どう」に傍点]して来たことか、
ひまある人は振り返る、
清い浜べとまるい丘。
常にわたしは馳せとほる、
いばら、からたち、岩のなか。
   ×
三分《さんぶ》ばかりの朱をば擦る、
枇杷の葉ほどの小硯に、
指の染むのも嫌はずに。
朱は擦るたびに低くなる、
地平の末の日のやうに。
   ×
落葉が揺れる、
蜘蛛の巣にひと葉、
鉢の水にひと葉。
空ゆく月は笑つてる、
見よ、美くしいあの白歯。
   ×
戸のすきまより、寒き月、
三尺の長さなる
しら刄を内に送る。
我れはこの時、
退屈を二つに斬る。
   ×
今なり、
心にある深山《みやま》の川、
寒き月きたり照すは。
我れは独り歩めり、
凍らんとするそのみぎは。
   ×
手ごたへを聴かぬ限り
おろす、おろす、おろす――錨
その末に――音――かちと、
今われの自《みづか》らに触れたるなり、
聴くことの楽しさよ、独り――かちと。
   ×
わたしを痛く刺したれど、
秋まで残る蚊のこころ、
秋に堪へても生きたかろ。
世にあることは唯だ一度、
刹那の後《のち》は虚無の白。
   ×
みぞれ降る日に開け放ち、
黒き小机、
生けたるは茶の花ひと枝《え》。
あるじなほ縁に立ち、
鋏刀《はさみ》あり、円座の上。
   ×
本《もと》をただせば痩我慢、
それを通したかたくな[#「かたくな」に傍点]が
仮に堅めた今日《けふ》の性《さが》。
沙の塔ぞと人云はん、
押せばくづるるわたしの我《が》。
   ×
ボタンを押せばベルが鳴り、
取次を経て座に通る、
なんとかずかず手間が要る。
わたしの客はわたしなり、
逢ひたい時に側にゐる。

[#改ページ]

 昭和十年


  〔無題〕

しら布に覆へる小箱、
三等車より下《お》り来たる。
黙黙として抱だきたるは
羽織袴の青年。
名誉の死者の弟か。

知らぬ他国の我れなれど、
この駅に来合せて、
人人の後ろより、
手を合せつつ見送れば
涙先づ落つ。

駅のそとには
一すぢの旗動き、
兵士、友人、縁者の一群《いちぐん》
粛然と遺骨の箱に従ふ。
「万歳」の声も無し。

我れは思ふ、
などか此の尊き戦死者の霊を
此のふるさとに送るに
一等車を以てせざりしや。
我が涙また落つ。


  〔無題〕

師走の初め、都にも
今年は寒く雪ふりぬ。
出羽奥州の凶作地
如何に真冬のつらからん。

陛下の御代の臣《おみ》たちよ、
人飢ゑしむること勿れ。
国には米の余れるに
恵みて分つすべ無きか。

市人《いちびと》たちよ、重ねたる
衣《きぬ》の一つを脱ぎたまへ。
飢ゑ凍えたる父母に
その少女らを売らしむな。

彼等の子なる兵士らは
出でて御国を護れども、
ああ、その心、ふるさとの
家を思はば悲まん。

ともに陛下の御民なり。
是れよそごとか、ただごとか。
いざ、もろともに分けて負へ、
彼等の難は己が難。


  〔無題〕

たけ高きこと一丈、
雪白《せつぱく》の翼を拡げたる大鳥二つ、
鸞ならん、鳳ならん、
青き空より舞ひくだり、
そのくはへたる紫の花を
幾たびも我手に置きぬ。
昨夜の夢は是れなり、
かかる夢は好し、
覚めたる後も猶
燦爛として心光る。


  〔無題〕

今日わしれども、わしれども、
武蔵の路の長くして、
われの車の窓に入る、
盛り上がりたる白き富士。

竜胆《りんだう》いろに、冬の空、
晴れわたりつつ、雲飛ばず。
見て行く萩の上にあり、
河原より吹く風のおと。

[#改ページ]

 昭和十一年

  一とせ

能はずとせしことなれど、
怪しく此処に得たりけれ。
おのれの死にて亡き後の、
世をば一とせ我れの見る。

能はずとして思ひし日、
これさへ色と彩《あや》ありて、
与らぬをばさびしやと、
羨しやと、泣かれたり。

見るべからざる物を見て、
寂しく時を送りぬと、
君見て云はん後もなし、
虚無の世界のことなれば。


  半分以上

私の子供達、さやうなら。
お父様のところへ行きます、
いろんな話をしませう。
あなた達もさう思ふだらう。
けれどそれは詩だよ、
言偏《ごんべん》の「し」だよ。
何があるものですか未来に、
そんな世界がねえ。
私はよく知つてゐた。
あれからの私は寂しかつた。
でもそればかりではなかつた、
私は詩を描いてゐたからね、
生活のおよそ半分を、
詩で塗つて来ましたよ。
この期に臨んでも、
私は抱いてゐます詩を、
詩を半分以上。
それでは行きますよ。
宣しく云ひませうね、
あなた達のお父様に。

[#改ページ]

 昭和十二年


  藤七の硝子

永久に若い天女の、
降りて来たのが藤七の工場。
作られて行く硝子の高坏《たかつき》の
美くしさに、うつとりと、
手を触れた指の跡。
うす紅《べに》の指紋を御覧なさい。
上からでも、下からでも、
もともと硝子なのですから。

指紋が残つて居ればとて、
不思議なぞありません。
硝子のまだ半液体である時、
其れが火より熱かつたとて、
天女の指は焼けません。
人の身体《からだ》の中の心臓の、
かうした場合などにも、
触れて見ない手ではありません。


  細きベツド

我が閨《ねや》の傍へのベツド。
内なるは君にあらずて、
藤子こそ眠りたりけれ。
この事実、いつよりとなく
覚えたり、夢裏《むり》のたましひ。

或る夜半の悪夢のうちに、
救ひをば我れの求めて、
声を上げ、君を呼びてき。
その寝ねて在《い》ますベツドは、
遥かにも離れてありき。

今もなほ、目にこそ見ゆれ。
君が寝て在ませるベツド、
細長く縁深かりき、
夢にわれ箱と悟らず、
ましてこれ柩なりとは。


  空しき客席

観客となり君が居る、
舞台であれば独白の、
長い台詞《せりふ》は云へませう。
どんな身振りも出来ませう。

重き病の悲みも、
訴へるよな、云ふやうな、
時と所を持たざれば、
感じぬことと変りなし。

たつた一句の捨台詞
わが引込みに云ふことも
無駄な舞台の上に描く、
黒い小さい疑問符を。


  強き友

海を渡らん我が友へ、
別れを述べに行きし時、
客室《サロン》の椅子をいと※[#「執/れっか」、10巻−483−上−1]き、
涙に我れの濡らしてき。

老いたる寡婦の悲みが、
別離の情に誘はれし、
不覚の態と恥ぢたりき、
友の客室の我が涙。

死ぬは期《ご》したることなれば、
重い病になりしとて、
強き心の我が友を、
殊更思ふこともなし。

世のもてなしの礼なさが、
著《あら》はになりて見えし時、
病に障りあらすなと、
惑へる子等を我れは見ぬ。

一年《ひととせ》まへの真夏の日、
旅立つ友に流したる、
涙のこころやうやくに、
悟るを得たり、わが友よ。


  蜜柑の木

朝の光が外にゐて、
さて鎧戸と、窓掛と、
その内側の白い蚊帳、
かうした中に生えてゐる、
蜜柑の若木五六本。
それが私に見えるのだ。
いまだ開かぬ瞼ごし、
まぼろしでなく夢でなく、
昨日の朝も今朝も見る。
香《かぐ》の木の実が生《な》るでなし、
はなたちばなが咲くでなし、
蜜柑の木より榊とも、
樒《しきみ》の木とも云ふ方が、
かなつたやうな若い木で、
穂すすきめいた弓なりの、
四尺ばかりの五六本。
初めの朝に蜜柑だと、
決めて眺めた緑の木。
熊野の浦の浜畑の、
白い沙地と見えるのは、
まさしく蚊帳の麻の目よ。
私はこれを楽しんで、
見てゐながらも思ひます。
かうした蚊帳の中にある、
蜜柑畑のほの白い、
沙子《すなご》の中で人しれず、
生命《いのち》終つて横たはる、
朝が私にあることを。


  すすき

穂の薄をば手に提げて、
盆の仏の帰る絵を、
身の毛のよだつ思ひして、
見たは幼い日のわたし。

そのすすきより細い手も、
それより白い骨もまた、
恐しい気のせずなりて、
十三日の待たるるよ。

巴里の街の下に見し、
カタコンブなる鈍色《にびいろ》の、
人骨などはよそのこと、
あの絵に描いた白い人。

[#改ページ]

 昭和十三年


  二十六日

霜月の末の落日、
常磐木の十《と》もと二十《はた》もと、
その他《た》には三四の紅葉、
中目黒、驪山《りざん》の荘よ、
広縁に畳敷かれて、
古柱、紫檀めきたり。
この入日、平家の船を
西海に照らせる如く、
我れを射て、いといと赤し
心をば云ふにあらねど、
風なくて肩の寒かり、
君逝きし二十六日。


  丹羽夫人に

伊弉諾《いざなぎ》と伊弉冉《いざなみ》の神、
導きて、うら若草の、
妹と背の君の入るてふ、
甲子園、ホテルの宵を、
遥かにも思ひやりつつ、
浮びくる唐の詩人の
宮詞《きゆうし》など、口に載せつつ、
幸ひの身にも及ぶと
云ふ如く、我れ楽みき。
あることか、二三日のちの
消息は、新男君《にひをとこぎみ》、
うちつけに、その夜中より
病して、妹背の契り、
空しくも、うたかたとなり、
永久に帰らぬ国へ、
翌る日の十七日に、
赴くと、逝《かく》れましぬと、
云ふものか、報ずるものか。
あさましと、云ふにも過ぎぬ。
はかなしと云ふきはならず。
喪の人と、この時すでに、
新妻の美喜子の君は
なりたまひ、つるばみごろも、
深く染め、籠りたまふと、
云ふことを、誰れか思はん。
涙ゆゑ濡れまろがりし
ひたひ髪、そのまみ見ゆれ。
哀愁にとざされはてし、
二方《ふたかた》のたらちねの君、
思はれて、虚無の隣の
人の世を、ひたすら歎く。


  をんな

涙の花のことごとく、
白く咲く日も、その内に
燃ゆる焔のひそみたる、
女の胸の怪しさよ。

かの青春が放ちたる、
火の綿綿と絶えざるを、
抱きて死ぬ期に至るこそ
太陽の子の女なれ。

かつてはあてに香ぐはしき、
くれなゐの花咲かしめき、
恨みの心深きとき、
むらさきの花零せしか。

六十年の齢《とし》終り、
病の深くむしばめる、
身は身なれども、我れは斯く、
思ひ上りて歌を書く。


  鵯

藍鼠をば著た上に、
伊達ものめいた黒を掛け、
党を組んだるひよどりが、
柑橘の畑荒しても、
追はぬ主人《あるじ》は故郷《ふるさと》の、
若人達を相手にて、
一葉余さず落葉掃く、
蓬が平《ひら》の真珠庵。

折しも続く東海の、
錦の雲の真中に、
ネエブル色の日が出れば、
伊太利亜型のひよどりは、
蜜柑の枝に背を反らし、
其処へ行かうと同志等に、
ささやく声もうち消して、
どつと渚の波が寄る。


  〔無題〕

都の中の神田にも、
丑三つ時のあることを、
病みて知れるにあらねども、
声の無きこそ哀れなれ。

しとどの汗のうちに覚め、
そこはかとなく明りさす
室の広きを見渡せば、
昼の二三の顔浮ぶ。

病めば思ひも多からで、
同じ筋のみたどられぬ。
生死《しやうじ》の覚悟身に沁まず、
我がこととなくよそよそし。

小床と向ふ垂幕に、
伊豆の入江の烏賊船の、
いさり火模様描くものは、
下谷浅草本所の火。

短夜なれば既にして、
外を通へる風の音
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