公などはやはり病的な男子の除外例でしょう。一体男女の区別と申すものが従来《これまで》のは余りに表面《うわべ》ばかり一部分ばかりを標準にしてはおりませんか。世間には女のような容貌《ようぼう》、皮膚、声遣《こわづか》い、気質、感情を持った男子があり、また男のようなそれらの一切を持っておる婦人があります。即ち子を産む機能を備えた男、文学者、教師、農夫、哲学者となる技倆《ぎりょう》を持った女というような人が随分あるかと存じます。種種《いろいろ》の学理と種種の実験とから調べましたなら男女の区別の標準を生殖の点ばかりに取るのは間違かも知れません。そうすれば男女のいずれかが全く肉感的であるというような事も間違であって、肉感的な人は男女のいずれにも多少あり、もしくは人間は一般に多少肉感的であるという事に帰するかも知れません。小説にはそういう所まで学理と実際の観察とで書かれていなければ進歩したとは申されませんでしょう。
男の作家に真の女は書けないかも知れぬという説がありますけれど、どうでしょうか。女には幾分女でなければ解《わから》ぬという点も前に申した通りでありましょうが、同じく「人」である女の大部
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