おられぬからであろうと存じます。
男を女が軽蔑《けいべつ》する理由がないように、女を男の方が軽蔑せられる訳は到底ないと考えます。釈迦が女の右の脇腹《わきばら》から生れたの、聖霊に感じて基督《キリスト》を生んだの、日を呑《の》んで秀吉《ひでよし》を生んだのと申すのは、女は穢《けがら》わしい物だと思う考えが頭にあって書かれた男の記録でしょうが、それがかえって女を豪《えら》くした妙な結果になっております。日や聖霊に感じて孕《はら》んだり脇腹から生んだりする奇蹟は男の方の永劫《えいごう》出来ない芸ではありませんか。
女が同盟して子を産む事を拒絶したらどうでしょう。また文学者や新聞記者に一切婦人の事に筆を著《つ》けぬように請求したらどうでしょう。それが聞かれねば一切小説と新聞紙を読まぬ事に決めたらどうでしょう。そういう極端な事でなくても、下女《げじょ》が台所でちょっと間違えて毒な薬を食物に混ぜても男は悲惨な結果になりましょう。男が女と協同し尊敬し合う事を忘れるのは決して名誉でありません。少くとも進歩した文学者は「人」として対等に女の価値を認めて戴《いただ》きたいと存じます。
と申して、
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