の味方になれる人は一人もない。命掛の場合にどうしても真の味方になれぬという男は、無始の世から定《さだま》った女の仇《かたき》ではないか。日頃の恋も情愛も一切女を裏切るための覆面であったか。かように思い詰めると唯もう男が憎いのです。
 しかし児供《こども》が胎《たい》を出《い》でて初声《うぶごえ》を挙げるのを聞くと、やれやれ自分は世界の男の何人《だれ》もよう仕遂《しと》げない大手柄をした。女という者の役目を見事に果した。摩耶夫人《まやぶにん》もマリヤもこうして釈迦や基督を生み給《たも》うたのである、という気持になって、上もない歓喜《よろこび》の中に心も体も溶けて行く。丁度その時に痛みも薄らいでいますから、後の始末は産婆に頼んで置いて、疲労から来る眠《ねむり》に快く身を任せます。勿論《もちろん》男の憎い事などは産が済んだ一刹那《いっせつな》に忘れてしまった自分は、世界でこの刹那に一大|功績《てがら》を建てたつもりですから、最早如何なる憎い者でも赦《ゆる》してやるといったような気分になります。

 近頃小説家や批評家の諸先生が、切端《せっぱ》詰った人生という事を申されますが、世の中の男の方が
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